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act.8月虹ワルツ<21>

「な?怒られなかっただろう?」 それが葵だからなのかは確かめようがないが、気を張った状態の櫻への接触を許された事実は誇らしいような、くすぐったいような気持ちにさせられる。 「明日も夜ごはん持って行くことになりました」 「そうか、それならよかった」 忍が分かりやすくホッとした表情を浮かべるのは珍しい気がする。学友としてだけでなく、彼らは家同士の縁もあると聞いたことがあった。櫻に掛かる重圧がどれほどのものかも、忍にはよく理解できているのかもしれない。 演奏会と聞くと、葵はどうしても習い事の発表会のようなものをイメージしてしまうが、櫻が食事の時間も惜しむほど本気で取り組んでいるということは、和やかな雰囲気のものではないのだと思う。 「会長さんは演奏会、行くんですか?」 「あぁ、招待されているよ」 櫻の家庭事情を知る前なら、自分も行きたいと無邪気に口にしていた。でも今は迂闊なことを言えそうにない。一度、櫻に断られているから尚更だ。 「気になるなら櫻に聞けばいい。まぁ正直楽しいものではないがな」 何度も参加したことがあるという忍が言うのならば、本当に一般人の葵が遊びに行くような場所ではないのだろう。 忍はわざわざエレベーターにまで一緒に乗り込み、都古の待つ場所まで付き添ってくれた。別れ際、額におやすみのキスを落としてきた忍に、都古の機嫌が悪くなったのは困ったけれど、やはりこうした触れ合いは嫌ではない。むしろ嬉しいと感じる。 綾瀬としかキスはしないという七瀬。お互いの気持ちが大事だという奈央。二人の言い分は理解できるような気がする。では、こうして皆から与えられるキスに愛情を感じて、安心してしまう自分は異端なのだろうか。 今は試験のことだけに集中しなくてはいけないというのに、頭の中はずっとそんなことばかりが巡ってしまう。こんな調子で本当にいつも通りの成績をとれるのか、不安でしかない。 「みゃーちゃん。やっぱりお風呂、一人で入る」 葵の手を引いて部屋へと先導してくれる都古に、思わず宣言してしまう。彼の願いを無下にする答えなのは分かっている。傷つけたくはない。それでも、今彼と肌が触れるような状況に置かれたら、ますます悩み事が増える気がするのだ。 ただでさえ、学校を休んでいる期間、都古や京介と交わしたスキンシップのことを思い出してはいたたまれない気持ちにさせられている状態。さらに新たな記憶を上書きされると困ってしまう。 都古は一度足を止め、切れ長の目を細めて見下ろしてきたけれど、言葉を発することはなく、ただ繋いだ手に力が込められる。それがどういう意味なのか、葵には分からなかった。

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