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act.8月虹ワルツ<26>
「好きだからしたいって。そう言ってくれたから、怖くはなかった。けど、どうしたらいいか分からなくて困ってる」
浴槽の縁に置いた手に頬を預け、葵は今の心境をぽつぽつと打ち明け始めた。
「勉強に集中しなくちゃって思うのに、このあいだのこともすぐに思い出しちゃうし」
「このあいだ、って?」
「痕消すの、手伝ってくれたこととか」
都古と目を合わせるのは恥ずかしいのか、葵は揺れる水面へと視線を落としてしまう。大方予想はついていたが、都古との接触を避けようとしたのも照れや戸惑いからだったのだろう。
一ノ瀬の記憶に囚われて怯え続けさせるよりは、葵がこうした方面で迷ってくれるほうがよほどマシだ。気は乗らなかったが、京介と二人で記憶を上書きするように触れたことも意味があったのだと思える。
「みゃーちゃんは、またああいうこと、その……したい?」
目線は外したまま、今度は葵から質問がもたらされた。聞かずとも答えなどわかっているはずだ。それなのに確かめてくるなんて、誘われているようだと感じる。
「したい」
願望を仄めかすように、赤く色づく耳元に口付けながら囁く。葵の肩が跳ねると共に、ぱしゃりと飛沫が上がる音が浴室に響いた。
「どうして?」
「それ、聞くの?」
葵が好きだと、散々伝えてきたはずだ。葵の全てが欲しいのだとも。都古が葵とどんな関係を望んでいるかまではまだ分からなくとも、触れたい理由ぐらいはそろそろ理解してほしい。
「……好き、だから?」
肯定する代わりにもう一度、今度は頬に口付ける。のぼせかけているのか、ようやく都古へと向けられた瞳は蕩けたように潤んでいた。
「特別な、好き?」
葵が似たような表現で冬耶にも質問をしていたことを思い出した。特別に好きな人がいるのか、と。冬耶は家族や友人の名をあげていたけれど、葵が聞きたかったことはそういう話ではなかったのだろう。
「好きなのは、アオだけ」
都古の中には葵への想いしかない。何度も捧げてきた言葉を繰り返せば、葵は切なげに微笑んだ。“皆”と仲良くしてほしいという葵の願いに反する答えだからだ。
でも今の葵に対しては、これ以上なく分かりやすい話だと思う。葵が知りたがった“特別な好き”の対象も、葵でしか有り得ない。確かめたり、不安がったりする必要はないと教えたかった。
「そろそろ、上がろ」
これ以上互いに肌を晒した状態でこんな話題や触れ合いを続ければ、理性が溶けてしまう。それでもいいと思わないでもないけれど、今迫れば試験勉強をしたがっている葵の邪魔になるのは明白だ。それに、今の所二つ予約している“ご褒美”の存在意義も薄れてしまう。
都古の提案が意外だったのか、葵は驚いた顔をしたけれど、差し出した手を素直にとってくれた。湯から引き上がる薄桃色の肌に舌を這わせたくなる気持ちを堪え、葵を涼しい場所へと逃してやる。
どこかホッとした顔でタオルに包まる葵を見て、これでよかったのだと自分に言い聞かせる。まだ心身ともに傷が癒えていない今の葵に、欲望をぶつけたくはなかった。それをすれば、都古を支配しようとした獣と同等になる気がするからだ。
「髪、乾かしてあげる」
ドライヤーを片手に無邪気に笑いかけてくる葵。彼の猫としてただ可愛がられる時間も都古にとってはかけがえのないものだ。
「明日も一緒に入る?」
都古が我慢したからこそ、葵からこうして歩み寄ってくれる。だからこれでよかった。
温かな風と華奢な指先が項をくすぐるのを感じながら、都古は葵に全てを委ねるように静かに目を瞑った。
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