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act.8月虹ワルツ<30>

「椿様には私ではなく、誰か別の者を見繕います」 「ほう、なぜ?」 「馨様のお傍を離れるわけには参りません」 柾相手に下手な駆け引きは意味をなさない。率直に告げれば、柾はその真意を探るように目を細めて見つめてきたが、すぐに深く息をついた。 「葵が気掛かりか」 「……はい。これからどうされるおつもりでしょうか」 使用人が主人の意を問うなど本来許されるものではない。ただ黙って従うことが役目だからだ。しかし柾は穂高の態度を叱ることなく、また視線を窓の外へやった。 「今日から登校し始めたらしいな」 どうやら柾もまた、葵の動向を把握しているらしい。学園に戻ったという話は馨や椿も口にしていた。こうして藤沢家の人間がこぞって葵を監視している状態そのものが、穂高の胸を苦しくさせる。 「まっとうな生活を送るのは無理だと思って手放したが、随分持ち直したな。成績は申し分ないし、北条の子息ともつるんでいると聞いた。馨のことさえなければ、早く迎え入れたい」 当時葵を救うこともせず施設に押し込んだくせに、勝手なことを言うものだ。穂高は柾への恨み言を心中で吐き出しながらも、それを悟られぬよう無表情を貫く。 「見た目はアレだが」 付け加えられた言葉に思わずこめかみがピクリと痙攣した。幸い、柾がまだ庭を見下ろし続けるおかげで見咎められずに済んだが、葵を侮辱するような発言はいくら彼の祖父であろうと許せるものではない。 柾をはじめ、藤沢家の皆が葵の髪や瞳の色を不吉がったことは、よく覚えている。馨が何より気に入り、愛したことも彼らの嫌悪感を煽る要素になった。 穂高の知る限り、葵に対して直接侮蔑的な言葉を掛けたのは母親とその取り巻きぐらいであったが、一人日本に残してからのことは知る由もない。この調子では、悪びれもせず、葵の心を傷つけた気がする。 「いや、黒く染めてやれば、案外馨の執着も落ち着くかもしれんな」 勝手に繰り広げられる構想を今すぐ止めたいが、穂高にその権利はなかった。 頭を過るのは幼い葵の姿。母親に蔑まれ、追い詰められた葵がインクを頭から被ったことがあった。髪と両手をべったりと汚しながらも、葵は鏡に映る自分の姿に満足げな表情を浮かべていた。それを見てどれほど心が痛んだか。 馨に見つかればひどく叱られるのは明らかだった。だから穂高は嫌がる葵を捕まえて必死に洗い落とそうとしたのだけれど、葵は何度もその手から逃げ出して、結局家中を駆け回る羽目になった。はじめは泣きじゃくっていた葵が、段々と穂高との追いかけっこが楽しくなってきたのか、笑い出し始め、最後には二人で泡だらけになって遊んだ気がする。 きっかけは切ないものだけれど、穂高にとっては大事な思い出の一つだ。 誰が何を言おうと、そのままの葵を心から慕っている。あの時慰めるように告げた言葉もきっと、穂高自身と同じように葵の記憶からは消えてしまっているだろう。 だからどうか、穂高の代わりに誰かが伝えていてほしいと思う。葵が自分を否定することがないように、と。

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