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act.8月虹ワルツ<31>
何もかもが中途半端で結論の出ないまま、柾との面会の時間は終わった。書斎を出ても、そこには当然のように椿の姿はない。彼が穂高を待つ理由もないし、一人で先に帰ったのだろう。
そう考えて一度は車に向かったものの、近くにいたメイドから椿が庭に向かったと伝えられ、目的地を変えざるを得なかった。
椿は自分の名と同じ花木の前に座り込み、じっとその葉を見つめていた。花の咲く時期でなくとも、光沢のある厚い葉はそれだけで美しく見応えがある。
「門の開け方、分からなかった」
穂高が近づく気配を察し、椿がこちらを見ることなく文句を言ってくる。どうやら一度は一人で帰ろうとしたらしい。確かにセキュリティが万全なこの屋敷は、容易に出入りが出来ない仕組みになっている。だからこうして渋々ながら穂高の帰りを待っていたようだ。
綺麗な顔をむくれさせる様子は、いつもよりも少しだけ幼く見えた。
「良かったな。アンタも清々すんだろ、俺がいなくなったら」
自ら藤沢家の庇護下に入った以上、柾に本気で命じられれば拒めるわけがない。ああは言いつつも、そのことを椿もよく分かっているようだ。どこか覚悟を決めた眼差しに、今まで彼に対して抱いたことのない憐憫の情が浮かんでくる。
「何やってんだろーな、マジで」
ぽつりと呟いだ一言に椿の今の思い全てが込められているように感じた。
「篠田さん、貴方はなぜこの家に?」
改めて問う。
彼が馨や西名家に恨みを抱いていることは知っている。葵を彼らから救いたいとも言っていた。でも彼の原動力となるものがもう少し別の場所にあるような気がしてならなかったのだ。だから信用ならないと、穂高に思わせた。
「あいつさ、何度も同じ本読ませてくんの。ウサギやらクマやらが森の城で暮らす、ただそれだけの話」
その物語には穂高も心当たりがあった。エレナが気まぐれに買い与えた唯一の絵本。椿と過ごした施設でも、葵はあの絵本を手放さなかったようだ。
共に過ごしていた時は、葵が眠るまで読み聞かせてやるのは穂高の仕事だった。でもそれを椿が受け継いでいたと知って、複雑な思いに駆られる。
「だから約束してやった。いつか一緒にこんな家に住もうって。俺が稼いでやるからってさ。ガキ臭い約束」
椿は当時を思い出しながら自分自身の発言を嘲ったけれど、その目にはいつになく優しい色が浮かんでいた。
「あいつは忘れてるっつーのに、ほんと、何やってんだか」
子供同士の約束とはいえ、葵と引き離されてもなお、その約束を胸に椿が生きてきたことは十分に伝わった。それほどの思いを抱いていたからこそ、西名家で暮らす葵に対し憤りを感じているのもある意味納得がいく。
「この家から金搾り取ってさ、んで葵連れてどっか遠くに行っちまおうと思ったんだけどね。こんな早くに俺が飛ばされることになるとは思わなかったわ」
穂高の問いに対する答えは少々乱暴で聞き捨てならないものだったが、椿らしい。
「私も付き添うように、と言われました」
「マジで?じゃあどこ行くか一緒に決める?俺、一年中暖かいとこがいいな」
「勘弁してください」
ふざける椿を咎めれば、彼はケラケラと笑ってみせた。落ち込んでいると思ったが、さすがに馨の息子だけある。ヤワな精神の持ち主ではないようだ。
「このまま旦那様のお言葉に従うおつもりですか?」
「まさか。いざとなったら葵かっさらってどっか行くわ。貧乏暮らしは慣れてるし?」
「お坊ちゃまを巻き込まないでいただけますか」
どこまで本気かも分からぬ調子の椿を正面から咎めれば、彼はまた無邪気に笑った。いつも馨に似ているとばかり思っていた彼の顔に、なぜか葵の面影が見えた気がした。
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