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act.8月虹ワルツ<35>

集中して机に向かっていた葵は、メッセージの着信を告げるメロディでしばらくぶりに顔を上げる。時刻を確認するといつのまにか一時間が経っていた。 メッセージの送り主は遥だった。“おはよう”という、ただ短い一言。けれど、時差を踏まえて送られてきたことが分かるから、それだけで飛び上がりたくなるほど葵を喜ばせる。 携帯を持つことで便利だと感じることはいくつもあるが、その一つが遥の過ごす街の時刻が手軽に把握できるようになったこと。ディスプレイには常にパリの時刻も表示されるよう、京介に設定してもらった。 彼の過ごす街はちょうど日付が変わった頃らしい。 “おやすみなさい” 真逆の返事を遥に送る。 彼は部屋から見える景色を気に入っていると話していた。特に夕陽が川面に反射する様が美しいと言っていたけれど、夜景はどうなのだろう。どんな夜空を見て遥は眠るのだろう。ふとそんなことを考える。 こうして些細なやりとりが出来るだけでも寂しさは埋まるけれど、全く違う場所で違う時を過ごしている現実は変わらない。 “遥さんはどんな空を見てるの” 本来ならきっとあれで終わるはずだった。でも葵は今日こちらの天気が雨だと付け加えながらそんなメッセージを送ってみる。 少し間を空けて返って来たのは一枚の写真だった。葵のリクエスト通り、部屋の窓から見える夜景を切り取ったもの。月明かりに照らされた街の姿は、葵の過ごす日本とは全く趣が違っていた。遠いところにいるのだと、ますます実感させられる。 でも続いて送られてきたもう一枚の写真には思わず頬が緩んでしまった。 さっきよりも引きのアングルで撮られた写真。そのおかげで室内の様子まで映り込んでいる。窓辺に置かれた写真立てにいたのは、いつかの自分の姿。 彼の生活の中に葵がきちんと存在している。葵の寂しさを汲み取って、伝えてくれたに違いない。 「おい、葵。そろそろ都古起こして支度しな」 いつのまにか京介は制服に着替え終わっていた。寝起きの悪い都古に支度をさせ、朝食をとることを考えたら、確かにもう動き始めたほうがいい。 葵は遥宛に短く礼を返すと、慌てて立ち上がった。 「京ちゃん、早く六月が来ないかな」 「ん?なに急に。あぁ、遥さん?」 力強く頷けば、京介はなぜか浮かない顔をして溜め息をついた。 「俺はあんま楽しみじゃねぇな」 「どうして?」 京介だって葵と同じだけ遥との付き合いは長い。親しい関係なのは間違いない。それなのに彼の一時帰国が楽しみじゃないなんて。 「お前の反応が目に見えてるから」 そう言いながら京介は葵をきつく抱きすくめてきた。立っている状態だと、大きな身長差が余計に顕著になる。自然と下りてきた唇が重なる角度も深い。 「……ん」 「ほら、早く行って来い」 数度啄ばまれるだけであっさりと口付けは解かれた。寝室へと向かわせるように背中を押してさえくる。京介が引き止めたくせに随分乱暴な仕草だ。 都古ほどではないけれど、京介もあまり多くを語ることはしない。そのせいですれ違いが生じたことも一度や二度の話ではなかった。今朝もそうだ。 きっと京介も何かに悩んでいる。それが自分に関連することぐらいは鈍いと叱られがちな葵でも分かる。 「みゃーちゃん、そろそろ起きよう」 布団の中で丸まる猫に掛ける声は極力明るさを装った。そうでなければせっかく遥からの連絡で浮上した心も、雨模様に引きずられるようにどこまでも沈んでしまいそうだったからだ。 眠そうな都古に甘えるように擦り寄られ、そして彼からもキスを与えられる。ただそれを無邪気に受け入れられた頃に戻りたいと。葵はつい、そんな思いを胸に宿らせた。

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