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act.8月虹ワルツ<41>

「それ夜食?藤沢ちゃんが食べるん?」 全員が食事を終え、そのまま食堂を出ようとする流れに逆らってカウンターに向かった葵。そこで弁当らしき包みを受け取っているのに気付き、つい声を掛けてしまう。 見た目通り少食であることは知っているし、さっきだって一人前を食べきれずに苦しそうにしていた。それなのにどうしてと疑問に感じるのは無理もないと思う。 「これ、櫻先輩の分です。今日は和食がいいってリクエストもらったので」 “今日は”というからには、昨日も頼まれたのかもしれない。 演奏会前の櫻がどんな状態になるか、それとなくは把握していた。 一人で部屋に篭り、ただひたすらにピアノと向き合う。身も心も削るようなやり方で衰弱していくのは明らかだが、誰も止められない。本番が近づくにつれて、忍ですら声を掛けられないほど鬼気迫る様子を見せるのだ。でもこの分だと、櫻は葵に甘えることを覚えたようだ。 「炊き込みご飯と、厚焼き卵と、なめこのお味噌汁と」 「……なめこ?」 紙袋に入った中身を一つずつ確認する葵の声に耳を傾けていた幸樹は、出てきた食材の名に思わず反応してしまう。 「あー、変えたほうがええかも」 余計な口出しとは思いつつも、知らぬフリをするのは意地が悪いだろう。 「え、櫻先輩、なめこ嫌いなんですか?」 「きのこが嫌い。んでぬるぬるしてる食べ物も嫌い」 「てことは、とっても嫌いってことですね」 「好みが変わってなければな」 葵は幸樹のアドバイスを受けてすぐに身を翻してカウンターに戻って行った。他のものと交換できないか、交渉を始めたようだ。 「子供じゃあるまいし、食わせればいいだろう。これ以上甘やかす必要はない」 長いこと同室だった忍も当然櫻の好みは把握している。その上で黙っていたのは彼らしい。忍からすれば、葵を向かわせてやるだけで十分な甘やかしなのだろう。 「昔から嫌いだったんだね」 奈央はそれを把握していた幸樹に対して微笑ましい目を向けてくる。 あえて幸樹から語ったことはないけれど、以前は櫻と友人と呼べる距離の関係だったことを察しているようだ。櫻の棘のある態度で、幸樹が彼を怒らせ続けていることも。 奈央には以前尋ねられたことがある。“仲直りしないの?”と。でもそれは幸樹が決めることではない。傷ついたのも怒っているのも櫻のほうだ。 「お豆腐なら大丈夫ですかね?」 戻ってきた葵は、忍でも奈央でもなく、幸樹に確認してくる。どうやら櫻の好みを把握している人としてインプットされてしまったようだ。また櫻に嫌われる。 「これ、月島には内緒な」 「……何を、ですか?」 言い含めようとしたが、首を傾げた葵の様子を見て失敗したことは分かる。とはいえ、元から好ましく思われていないのだから、今更悪評を重ねたとてダメージはない。 誤魔化すように葵の髪を撫でてやれば、またその手を掴まれた。手を繋ぐなんて行為自体幸樹は慣れていなくて、その温もりにむず痒さを覚える。身長差がありすぎるせいで、歩きづらいと感じるのも否めない。 でも離したくはなかった。今夜は葵をエスコートすると約束したのだ。 「月島の部屋まで?」 「はい」 「では、お連れしましょうかね」 華奢な手の甲に恭しく口付けると、葵はまた始まったと言いたげに笑い出した。普段の言動からかけ離れた仕草がよほど面白いらしい。そこは照れて欲しいところだが、これはこれで構わない。 笑い上戸のお姫様を連れ、幸樹は目的の場所へとゆっくり歩き出した。

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