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act.8月虹ワルツ<42>

* * * * * 己の指先が奏でる旋律が満たされた空間。それを外的な要因で崩されることは何よりも嫌いだったが、今夜は違う。チャイムの音に苛立つどころか、張り詰めていた表情が緩むのが分かる。 「いらっしゃい」 昨日櫻が怒鳴ったからだろう。どこか緊張した面持ちで扉の前にいた葵を招いてやれば、途端に安堵した様子を見せた。 自分でも不思議だ。葵のことは好きだし、何より可愛いと思っている。でも演奏会を前にした状態でも、葵を傍に置きたくなるのは意外だった。 「今日は猫ちゃんに連絡しないの?」 「櫻先輩がごはん食べるの見張ってくるって言ってきたので、大丈夫です」 「……それ、本当にそのまま伝えてそうでこわいな」 都古は一体どんな気持ちで受け入れたのだろうか。無茶苦茶な理由で引き留める櫻の我儘を見透かして、怒っているかもしれない。二夜連続で送り出すだけでも、彼にとっては大きなストレスだろうに。 「やっぱり、きのこ嫌いなんですね」 炊き込みご飯に混ざる椎茸を箸で器用に避けていると、葵からそんな声が掛かる。 「このぐらい、外ではちゃんと食べるよ。ていうか、やっぱりって何?」 葵相手に嫌いだと話したことがあっただろうか。共に食事をする機会がある時は、初めから安全なものしか頼んでいないし、わざわざ弱みを晒す真似もした覚えがなかった。 「さっき上野先輩が言ってたので」 「ふーん、今日居たんだ?珍しい」 幸樹が食事に混ざったこともそうだが、櫻と一定の距離を保ち続ける彼が親しさを滲ませるようなことを口にするなんて。 「ちょっと驚きました。上野先輩が櫻先輩の食べ物の好み、知ってるの」 葵ははっきり表現しなかったけれど、二人の仲が良くないと思っていたのだろう。生徒会活動中も出来るだけ言葉を交わさずにいるし、冗談混じりではあるが、幸樹を追い出そうとする言動も多々とってきた。 「気になるの?」 「あぁ……はい。でも、無理に聞きたいわけじゃないです」 葵にとっては櫻も幸樹も親しい先輩。同じ生徒会に属する者としても、二人の関係が気になるのは当たり前だ。けれど、櫻が嫌がることを見越して、葵は言い訳のような言葉を付け加える。今までも気を遣わせていたに違いない。 「ただ、上野先輩は櫻先輩のこと好きなんだろうなって思うんです」 「気持ち悪いこと言うのやめてくれる?」 葵にそんな意図はないにしても、反射的に顔をしかめてしまった。 「始業式で櫻先輩に怒られちゃった時、背中を押してくれたのは上野先輩だったので」 好きだと素直に伝えればいい。あの男らしからぬ言葉で葵を励ましたのだという。それに、櫻が“ごめん”と素直に言い出せないだけだとも言っていたらしい。幸樹は何を思って葵にそんなことを伝えたのか。

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