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act.8月虹ワルツ<43>

「ごはん持ってきてくれたお礼に、一曲弾いてあげようか」 幸樹の話題を切り上げるように席を立つと、葵は複雑な顔をしてみせたが素直にあとをついてきた。ピアノのすぐ横にスツールを置いてやり、そこに葵を座らせる。 「今度演奏会で弾くノクターンでいい?」 リクエストを募るのではなく櫻から提案すると、葵は少しだけ残念そうにした。一番に聴きたい曲を知っていてあえて外すのは意地悪でしかない。 葵が櫻との思い出の曲と言い張るワルツ。葵から弾いて欲しいとお願いされたことは一度や二度ではないけれど、いつもはぐらかしてばかりいる。 「文句ある?」 「いえ、そんなことないです。聴きたいです」 葵は櫻の問い掛けに慌てて姿勢を正し、観客として拍手を送ってきた。それに応えるように微笑みを返して、鍵盤に向き合う。 ノクターンは夜を想う楽曲のこと。月の光だけが輝く静かな夜の世界へと葵を誘うように、ゆったりと音色を紡いでいく。 月島家に対して良い感情は微塵もないけれど、代々受け継がれるこの楽曲は美しいと素直に思う。演奏を任されていることで一族の不興を買っているが、櫻以上に弾きこなせる自信があるのならば堂々と名乗りをあげればいいだけの話だ。 最後の一音まで丁寧に奏で、一呼吸つく。今宵の観客は一人だけ。送られた拍手の音は小さいけれど、不満はなかった。演奏後の櫻を笑顔にさせることが出来るのは葵しかいない。 “おいで”と声を掛けると、葵は櫻の腕の中に飛び込んでくる。 「この曲、初めて聴きました。すごく綺麗な曲ですね」 「むかーしの月島の人が作ったんだってさ。だから、一般の人が聴く機会はないだろうね」 内輪の、それこそ今度行われる演奏会のような場でないと披露されない楽曲だ。葵が知らなくて当然だと告げる。 「櫻先輩はこの曲、好きですか?」 余韻に浸るように、肩口に葵の頭が凭れ掛かってきた。 「うーん、考えたことなかったな」 与えられた課題という認識でしかなかったから、改めて問われると答え方が難しい。 「好きでも嫌いでも、弾かなきゃいけないことに変わりはないし」 楽曲に対して深く考察することはあっても、己の好みかどうかを判断する工程を挟むことはなかった。それはどの曲に対してもそうだ。 でも、と櫻は思い出す。 幼い頃は、母の歌う曲に対して無邪気な感想を口にしていた覚えがあった。どの曲を歌ってほしいか、ねだることも多かった。ピアノを習い始めた頃もそうだ。課題曲の他に、自分の弾きたい曲を見つけて教わる形をとっていた。 遠い昔のこと、というよりも、まるで自分ではない誰か別の人間の記憶のようだ。いや、その感覚はあながち間違いではないかもしれない。苗字が月島に変わった時、それまでの自分は死んだのだ。

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