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act.8月虹ワルツ<44>
「初めてこうして喋ったときさ。葵ちゃん、僕の名前が綺麗だって言ったよね」
「……はい」
あのとき無邪気に褒めてくれた葵を責めるつもりはない。櫻の名前さえ認識していなかったのだから、抱える事情も全く知らなかったのだろう。でも今の葵はどこか申し訳なさそうに頷いた。
「ようやく人生の半分、この名前で過ごしてきたからかな。今では自分でもこっちのほうがしっくり来る。不思議なもんだよね」
ただの事実であり、そこに何の感慨もない。呼ばれることはもちろん、名乗ることにも抵抗しかなかったというのに、慣れというのは恐ろしい。
「月に櫻、ね。ほんと、よく出来た名前」
初めから櫻が月島家に入ることを想定して名付けたのかと邪推したくなる。
「あぁ、ごめん。なんでこんな話したんだろ」
葵にとっては訳が分からないことばかり、つらつらと語ってしまった。
戸惑った表情を浮かべさせていることに気が付き、櫻は宥めるように額に口付ける。そのまま目元を通り、唇までキスを繰り返していくが、葵はそれをただ大人しく受け入れるだけで、いつものはにかんだ笑顔を見せてはくれない。
自分にとっては何でもない呟きのつもりだったけれど、葵は受け流せるはずもないだろう。
「何が気になってる?いいよ、聞いて」
あえて語らなかっただけで、頑なに隠そうとしていた話ではない。
週刊誌の記者が櫻に興味を持っていると知った時も、葵に知られることを怖いとは思わなかった。遠回りをした気はするが、櫻の中では葵との関係が構築出来てきた証だとも感じていた。
それに、櫻だけが一方的に葵の秘密を把握している状態がフェアではないと、そうも思えたのだ。
葵はしばらく無言で悩む素振りを見せたけれど、何も聞かないことを選んだ。
「そんな顔してるのに?別に怒らないよ?」
覗き込むように見つめても、葵の決心は揺るがなかった。
こんな尋ね方をしたのが悪かったのだろう。自分語りをするよりも、聞かれたことに答えるほうがお互い楽だと思っただけなのだが、葵に余計な負担を掛けてしまったようだ。
大分心得てきたと思っていたけれど、自分はまだ葵との付き合い方が下手らしい。
「じゃあ僕から一つ、教えてあげる」
櫻は混乱させたことを詫びるために、葵の体を抱き締め直した。葵からも櫻の肩に腕が回ってくる。
「住吉櫻」
「……すみ、よし?」
「前の名前。覚えておいて」
自分でも忘れそうだから。そう付け加えると、葵の瞳が切なげに揺れた。
「僕が聞いて良かったんですか?」
「なんで?隠してないし。ていうか、初等部からの同級生は皆知ってるよ。忍も奈央も。それから、上野もね」
苗字が変わること自体は、そう珍しい話ではない。いちいち同級生の前の名前など覚えているかはさておきだが。
「住吉のままだったら、葵ちゃんにもうちょっと優しい奴になれてたかも」
元々可愛げのない子供だった自覚はあるが、それでもここまで捻くれた性格になったのは月島家の影響に違いない。
「今の櫻先輩が好きです」
「……そう?」
もしかしたら自分は不安な顔をしていたのだろうか。葵は答える代わりに櫻の髪を撫でてきた。
葵に慰められるつもりなんて全くなかった。けれど、子供みたいな手で懸命に触れてくるのが不思議なほど心地よくて、つい目を伏せてしまう。
「大好きです」
もう一度、言い聞かせるように言葉が紡がれる。そして柔らかな感触がわずかに唇に触れた。
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