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act.8月虹ワルツ<45>

* * * * * * まるで逃げるように櫻の部屋を後にした。扉を閉めて少しは気持ちが落ち着くけれど、心臓がバクバクとうるさいぐらいに音を立てている。 自分は一体何をしたのだろう。 過去を振り返って寂しそうな櫻に対し、よく分からぬ感情が湧き上がり、そして気が付いたら唇を寄せていた。頼まれてするのでもなく、しようと意気込んで臨んだものでもない。ごく自然に体が動いていた。 櫻が驚き、固まったのはほんの一瞬。葵が自分自身の行動に戸惑っているあいだに、きつく抱き締め直され、深いキスを与えられた。隙を見てなんとか紡いだ“帰らなくちゃ”の一言で、解放されたけれど、あのタイミングを逃していたらどうなっていたのだろう。 “ごちそうさま” 葵の背中に掛けられた声は純粋に、食事のことだけを指しているとは思えないほど色っぽかった。 「……へーき?」 扉に持たれ掛かって呼吸を整えてしばらく。不意に掛けられた言葉で顔を上げると、すぐ傍に幸樹の姿があった。彼は本当に最後までエスコートしてくれるつもりだったらしい。つまり、廊下で葵の帰りを待っていた彼には、慌てた様子をばっちり見られていたようだ。 「そんな顔して都古ちゃんとこ戻ったら、まずいんちゃう?」 優しく頬に触れてくる彼は、何もかも見透かした顔で笑う。 「どんな顔してますか?」 「んー?いっぱいチューされて、気持ちよくなっちゃった顔?」 恐る恐る尋ねると、想像を遥かに上回る答えが返ってきた。せっかく治りかけていた熱がぶり返すのが分かる。頬が熱くて仕方ない。 「当たり?」 今更嘘をついても仕方ないのかもしれない。それでも素直に頷くことは出来なくて、曖昧に俯けば、幸樹はますます面白そうに笑った。 「真っ赤なほっぺが元に戻るまで、お兄さんの部屋、寄り道する?」 「いいんですか?」 「ええよ、おいで」 彼に手を引かれるまま向かった先は、櫻の部屋のすぐ隣だった。 部屋の広さも間取りも、他の部屋と全く変わりがないはず。でも幸樹の部屋は異様に広々して見えた。その理由は一切の家具が置かれていないからだ。唯一あるのはリビングスペースの真ん中に置かれたベッドだけ。 そのベッドさえ大きさはあるものの、ロータイプだからか、圧迫感は薄い。 「はぁ、色々心配になるわ。ホイホイ着いてきちゃって」 あまりにも殺風景な光景に固まっていると、扉を閉めた幸樹に背後から抱きすくめられた。ウエストに回ってきた逞しい腕に己の手を絡めれば、より一層深い溜め息がもたらされる。

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