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act.8月虹ワルツ<46>
「そりゃ守る気ではおるし、信頼されてるっちゅーのは嬉しいけどな?警戒心なさすぎんのは問題やなぁ」
「上野先輩?」
彼はどこか呆れたような表情をしていた。でもそれがなぜか、葵には分からなかった。何かまずいことをしたのかと不安になって見上げると、視線が絡む。
日焼けとは縁遠いメンバーが集まる役員の中で、幸樹だけは健康的な肌色をしている。けれど、瞳の色は色素が薄い。明るいブラウンの瞳。こうしてジッと観察する機会に恵まれなかったから、吸い込まれるように見つめてしまう。
「なーに?お兄さんともチューする?」
からかうような口調と共に近づいてくる唇。このままだと宣言通りキスをされる。それはさすがに分かるけれど、どう動くべきなのかが分からなかった。嫌なわけではないからだ。
身動きをとれずにいると、唇はちゅっと音を立てて重なり、そしてあっさりと離れていった。
「今夜は王子様でいる約束したからな」
幸樹はそう言って葵の髪をくしゃりと撫でると、一足先に部屋の奥へと進んでいってしまった。
ソファもクッションもない空間で腰を落ち着ける場所はベッドの上しかない。座っていいか確かめるように窓辺の幸樹に視線を投げれば、“どうぞ”と促される。
「すまんな、何もなくて」
バルコニーに面した窓を開け放した幸樹も、すぐに葵の隣に戻ってきてくれた。謙遜としてよく使われる言葉ではあるが、本当に何もない空間で言われると返答に困る。
朝から降り続いた雨は、夜になって少し勢いを増した。その雨音に混ざって、ピアノの音色が聞こえてくる。櫻はあのあと休むことをせず、すぐに練習に戻ったらしい。彼には余計なお世話だとあしらわれそうだけれど、明日から試験も始まるというのに大丈夫なのだろうか。
「奈央ちゃん相手には気にしたことなかったけど、お茶の一つも出せないのは問題やな」
湯を沸かす鍋やポットの類はおろか、コップすらないのだという。幸樹にとっては本当にただ寝に帰るだけの場所だけらしいが、あまりにも極端すぎる。
「今度一緒に買いに行きませんか?」
「何を?コップ?」
「はい、試験が終わったら買い物に行こうって奈央さんと約束してるんです。だから上野先輩もどうかなって」
今の部屋には、京介や都古と共用で使っているものが多い。寮内を移動するだけとはいえ、完全に一人で生活するとなると、今の生活用品の持ち合わせでは心許なさがあった。
「へぇ、藤沢ちゃんは引っ越しに前向きなんや?寂しくないん?」
「一人部屋になるのは寂しいです」
今だって名義上あの部屋は葵だけのものとなっているが、実際は京介と都古がいつも一緒に過ごしてくれていた。役員になる前だって京介とはずっと同室だったし、一人になるのは今回が初めての経験だ。不安はある。
「でも上野先輩たちと過ごせるのは、あと一年もないんだなって思ったらそれも寂しくて」
大好きな先輩たち。彼らは三月にはこの学園を卒業してしまう。最後の一年があっという間に過ぎてしまうことは、冬耶や遥で経験済み。だいぶ先のようで、きっとすぐにお別れの時が来るのだと思う。
「出来るだけたくさん、一緒に居たいです」
生徒会という接点はあれど、学年が違うとそれだけで顔を合わす機会はぐっと減る。だからせめて残りの時間、彼らと並んだ部屋で生活したい。不安はあるけれど、引っ越しの提案をそれほど悩まずに受け入れられたのは、その気持ちが強かったからだ。
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