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act.8月虹ワルツ<48>
* * * * * *
「京ちゃん」
頬をピンクに染めた葵が、ドライヤーを抱えてやってくる。髪を乾かしてほしいというアピールだ。京介はその甘えをからかうことなく、ソファに座る己の足元に葵を招いて座らせた。
葵と共に風呂から上がった都古は、長い髪をタオルで乾かしながらチラリと視線を向けてくる。彼らの様子から察するに、今夜も都古は仕掛けなかったようだ。
耐えきれずに葵に触れた京介を、都古は自分の行動で咎めてくる。京介よりも葵を大事にしているという自信もあるのだろう。悔しいけれど、文句は言えなかった。
一度も染めたことのない葵の髪は、京介のものとは違って指通りがいい。髪自体も細いせいか、風を当てるとすぐにサラサラと乾いていく。
こうして葵の髪を乾かしてやる行為が当たり前になったのはいつからか。
西名家に来たばかりの頃は、ドライヤーを見るのも嫌がっていた。だから両親はタオルだけで丁寧に乾かして寝かしつけていたけれど、柔らかな髪は寝癖がつきやすい。ボサボサの頭で眠そうに目を擦る幼い葵の姿を思い出して、つい口元が緩む。
「どうしたの?」
「……ライオン」
その一言で葵も同じ出来事を思い出したらしい。京介が笑ったことに気がついて不思議そうに見上げてきた葵の表情が一気に和らぐ。金色の髪を四方八方に乱れさせる様がライオンのたてがみみたいだと、冬耶が表現したことがあったのだ。
ウサギのぬいぐるみを抱えた葵を例えるには不似合いすぎる動物だ。それだけでも家族を笑わせたのに、言われた本人が喜んだことがさらにおかしかった。
「お兄ちゃんがライオンの耳、作ってくれたね」
「この世で一番弱っちいライオンだったな」
いつもはすぐにブラシで整えてやる寝癖をその日は直さなかった。画用紙で作った耳を付けた葵が、めずらしく終日ご機嫌だったからだ。当時はまだ声を取り戻していなかったからこそ、分かりやすく喜ぶ葵の姿が新鮮で、家族全員が安心させられた。
カメラを向けられることも嫌がる時期だったから写真として残っていないのは残念だが、どこか誇らしげな葵の表情は心にしっかりと刻まれている。
出会った時から、世界の中心はずっと葵だった。それはきっと、これからも変わらない。
ドライヤーのスイッチを落とすのを合図に、葵はこちらを見上げて“ありがとう”と微笑んだ。こんな些細な表情や声音にすら、いちいち愛しさを募らせているなんて、彼は想像もしていないだろう。
「ね、飲み物買いに行こ?」
一度はテーブルに向かおうとした葵が、京介の膝に凭れて誘いをかけてきた。
「勉強すんじゃねぇの?」
「だから、眠くならないように苦いの買う」
口ではそう言うが、すでに目元はとろんと潤み始めている。本調子とは言えない体調な上に、今朝は早起きまでしていた。疲れ切っているのは明らかだが、止めたところで素直に聞かないはずだ。流されやすいように見えて、彼は案外頑固なところがある。
「みゃーちゃんも行こ」
葵の中には都古を置いていく、という選択肢はないようだ。そんなことはよく分かっていたはずなのに、二人きりで出歩くことを少し期待した自分が馬鹿らしい。
誘いを受けた都古は、またあの無機質な目でこちらを睨んできたあと、小さく頷いた。主人の誘いとはいえ三人でというのが気に食わないようだが、ここで文句を言えば葵を悲しませる。そのぐらいは学習したようだ。
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