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act.8月虹ワルツ<49>
試験前夜だからか、自販機の並ぶ一階まで下りてもほとんど人影は見当たらない。葵はその静けさを不気味に感じたのかもしれない。京介の腕に己の腕を絡めて擦り寄ってきた。反対の手は当然のように都古と繋がれている。
こんな調子では、京介たちと離れて一人で過ごせるはずがない。今ならまだ間に合う。葵が嫌だと言えば、兄が無理強いすることはないはずだ。
「試験中、ずっと雨らしいな」
葵の不安を煽るようなことを口にするのは卑怯だという自覚はある。窓の外に視線をやり、何の他意もない雑談を装って、明日からの天気を話題にした。
「そっか。じゃあ今年も綺麗な紫陽花が咲くね」
葵はいつも、こちらの予想とはどこかずれた答えを導いてくる。今もそうだ。引っ越しを考え直すきっかけにさせたかったというのに、梅雨の時期を待ち侘びるようなことを言ってみせる。
「紫陽花はお水をいっぱい欲しがるんだって。だから雨が降ると喜ぶって、みゃーちゃんが教えてくれた」
ね、と言って見上げた葵に対する都古の目は、他には決して見せないほど柔らかい。
葵が雨の日に嫌な目に遭ったことは、都古も知っている。日中はいつも以上にぼんやりする傾向にあるし、眠っている時ですら雨音に反応してうなされる回数が増える。真意は分からないけれど、都古なりに葵を慰めるための言葉だったのだと感じた。
「今年もまた見に行こうね」
葵の瞳が再びこちらを捉えた。思い描いていた話の筋とはだいぶずれてしまったが、この笑顔を見るとそれでもいいかと思わされてしまう。
六月になると、学園の敷地内にある紫陽花のスポットに通うのが葵との慣習になっていた。まだ蕾の段階から徐々に花開く過程を、葵は毎年楽しげに観察している。
京介は花には特段の興味がない。それでも葵が熱心に誘ってくれるのは、京介が自室に唯一飾っている花が紫陽花だからだ。
ずっと楽しめるようにと、枯れる前に押し花にした紫色の花びら。その贈り主が自分だなんて、葵本人が全く覚えていないことが憎らしい。意味もなく紫陽花だけを好きなわけがないというのに。
京介にとっては大切な思い出が、葵からは消え失せている。まだ共に住む前の出来事で、そのあと葵の身に立て続けに何が起こったかを考慮すれば、無理もないことなのだろう。だから諦めていた。
でも今は違う。宮岡の手を借りながら、葵は過去の記憶を少しずつ手繰り寄せようとしている。いつか、京介の誕生日を初めて祝ってくれたあの日のことを思い出すかもしれない。そんな期待を寄せてしまう。
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