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act.8月虹ワルツ<51>
「奈央さんだ!」
こちらは誰かが降りてくることを見越して待ち構えていたのだけれど、相手は違う。扉が開くなり名を呼ばれ、奈央はかなり動揺したらしい。いつも穏やかに笑みを携える目元が、今は驚きで丸くなっていた。
「……えーっと」
「眠気覚ましでこれ買いに来てたんです」
状況を把握したがる奈央に、葵は手にしたカフェラテのボトルを見せた。だいぶ説明不足の感は否めないが、京介や都古の手元にもそれぞれ自販機で手に入れたものが握られているのを見て、成り行きは理解した顔になった。
「奈央さんもお買い物ですか?」
「あぁ、うん。僕もちょっと、ね」
歯切れの悪い回答の理由は、彼が傘を手にしているからだろう。寮内が目的地ではなく、外に出るつもりであることを意味していた。まさかこんなタイミングで遭遇するとは思いもしなかったのだろう。咄嗟にそれらしい言い訳が出来ないところが、彼の素直な人柄を表している。
「試験がんばろうね。また明日」
「はい、おやすみなさい」
奈央はそれ以上追及されることを避けるように葵の頭にぽんと手を置いて微笑むと、立ち去ってしまった。案の定彼はそのままホールを抜け、エントランスから外に出て行った。
「加南子さん、かな」
「誰それ?」
奈央の背を見つめ続けていた葵は、京介にとっては全く覚えのない女性の名を口にした。
「“取引先のご令嬢”って言ってた。あんまり仲良くないみたい。さっきの奈央さん、前にその人が来た時と同じ顔してた」
奈央の抱える事情はそれとなくしか知らないらしい。それに葵は色恋に疎すぎる。こんな時間に女側が訪問してくるとしたら、まず間違いなく向こうは奈央に好意があるのだろう。親の関係もあり断り切れない状況であることまでは、なんとなく想像がついた。
都古は特段興味なさそうに欠伸を繰り返しているが、京介はその話をもう少し広げたくなった。
「そいつが来たのって、お前が高山さんの部屋に泊まった時の話?」
京介の問いに、葵は頷きで答えた。奈央を心配して様子を見に行きたいと言い出した夜のことは、よく覚えている。寝かしつけようとして逆に眠ってしまった、なんて話を聞いた時は、どこまでも幼い葵に大いに呆れさせられた。
だが、あんな風に追い詰められた顔をした奈央を見て、放っておけないと感じた葵の気持ちは理解できた。確かに心配にはなる。
「待ってようかな」
「やめとけ。用件言わずに行ったってことは、触れられたくねぇんだろ」
彼にとっては出掛ける姿を目撃されることすら、想定外だったはずだ。葵も奈央が望まないということは分かっていたのだろう。京介がエレベーターを呼び出すと、それ以上ごねることなく大人しくついてきた。
「奈央さん、大丈夫かな」
部屋に戻っても葵は気持ちを切り替えられずにいた。机に広げた勉強道具をいじりながらも、奈央のことばかりを考えている。
「人の心配する前に自分のこと考えろよ。勉強すんだろ?」
そう言って髪を撫でてやれば、葵はペンを取るどころか京介の腕の中にぽすんと飛び込んできた。いつもならなんてことのない行動も、鳩尾に怪我をしている状態ではどうしても痛みが走る。歪んだ表情を見られぬよう葵をきつく抱き寄せれば、近くから白けた目線が向けられるのを感じた。
「何がそんなに引っかかってんの?」
「分からない。でもすごく、もやもやする」
葵はそう言って、自分の胸部分の布をぎゅっと握り締めた。葵自身、己の感情の言語化が難しいらしい。京介に凭れた体勢のまま、悩み始めた。単純に奈央を心配しているだけの話ではないのかもしれない。
しばらくそうして葵の体を預かりながら様子を見守っていると、彼の呼吸が段々とゆっくり規則的なものになってきた。このまま寝てしまうに違いない。促すように髪を梳き、背中を撫でると、瞼が完全に閉じられた。
「全然意味なかったな」
葵が少しだけ口を付けたカフェラテを見て、つい笑みが溢れる。どう見ても甘みが強いそれを、苦いと言って顔をしかめながら飲んでいたくせに。こうした日常の些細なやりとりすら、葵への想いを後押しする。
やはりこの存在を手放したくない。手放せるわけがない。クラスが違う状況で、唯一葵と過ごせるこの時間さえも奪われたらどうしたらいいのか。
せめて今は都古にすら触れさせたくない。その気持ちを表すように、京介は小さな体を強く抱き締め直した。
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