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act.8月虹ワルツ<53>
「そろそろ帰ったほうがいい」
「じゃあ送って」
傘を差す奈央の手に、加南子の手が重ねられた。堂々とした立ち居振る舞いとは裏腹に、彼女からは震えが伝わってくる。異性に触れることへの緊張か、それとも奈央に拒絶されることへの恐れか。不意に二つも年下の少女らしい弱さを見せられて、ますます無碍に追い払えなくなる。
でも奈央の事情をちっとも気遣おうとしない物言いには、息苦しさを覚えた。彼女と会話をするといつもこうだ。奈央を好きだと主張するわりに、奈央の心に対しての配慮は何も感じない。
「自分の傘を差して」
要望には応えず、淡々と突き放す台詞を口にする。加南子の瞳に涙が一気に溜まるのが分かるけれど、引くつもりはなかった。こんな触れ合いなど、奈央は求めていない。
加南子の手はようやく離れたけれど、代わりとばかりにその体が奈央に飛びついてきた。柔らかな感触と温もりを、普通は心地よいと感じるのかもしれない。でも奈央にとってはただ違和感しか覚えなかった。心の中にいる人物とは違う。浮かぶ感情はただそれだけ。
人工的な艶の浮かぶ唇が近づいてきても、不思議なほど冷静に肩を押し返すことが出来た。手元から離れた傘がアスファルトを転がっていく。遮るものがなくなり、雨粒が二人へと容赦なく降り注いできた。
「どうして」
完全に泣かせてしまったのだとは思う。けれど、雨のおかげで彼女の頬に伝うものがどちらなのか、判別がつかなかった。奈央が問いかけに答えられずにいると、加南子は傷ついた目をしたまま車に駆け込んでいく。
好意を返せないことに対する罪悪感はある。でもどうしても自分の気持ちを偽り、彼女の婚約者として振る舞うことは出来そうもない。ああして触れてより一層はっきりと実感する。
加南子が今回のことをどう騒ぎ立てるか、想像がつく。両親はさぞがっかりすることだろう。今まで以上に強引に話を進めようと画策するはずだ。それでも奈央には期待された役目は果たせそうにない。もう無理だと音を上げてしまいたい。
風に煽られ、数歩先まで跳ねていった傘を拾い上げるために身を屈めると、すっかり濡れた前髪からぽたぽたと雫が垂れる。シャツが肌に張り付く感覚も不愉快だ。
早く部屋に戻ってシャワーを浴びたいと思うものの、葵たちがもしもまだあの場に居たらと思うと真っ直ぐに寮に戻るのは気が引けた。こんな時間に外出する奈央のことを、間違いなく訝しんでいるとは思う。葵の性格を考えたら帰りを待ってくれていそうな気もするのだ。
どうしたらいいものか悩みながらも、ひとまずは学園の敷地内に戻ろうと校門に近づいた時だった。
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