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act.8月虹ワルツ<54>

「オンナいるんだ?」 暗がりから唐突に声を掛けられ、奈央は歩みを止めた。声のした方向に視線を向けて目を凝らしても、外灯の光が届かない範囲にいるのかはっきりとした姿は見えない。でも妙に弾んだような声音には覚えがあった。 「いいモノ見ちゃった。真面目な役員サンがこんな時間にキスしてるなんてネ」 奈央を煽るような言葉と共に、声の主は徐々に姿を現した。 それなりの身長はある奈央でさえ見上げるほどの長身。トレードマークの赤い髪。傘を差していないせいで、いつもツンと立てられているその髪は、今はしっとりと濡れていて彼の雰囲気を随分大人しく見せる。だが金色の瞳は獲物を捕らえた時の獰猛さが宿っていた。 「誤解です」 角度によっては、確かに加南子とキスをしていた風に見えたかもしれない。 若葉相手に釈明する必要はないと思うものの、奈央は律儀に返事をした。誰であっても、加南子とそういう関係であると見なされたくはなかった。 正面で向かい合うと、その体格の良さに圧倒される。それでも彼のペースに飲み込まれぬよう真っ直ぐに視線を投げ返した。 「へぇ、誤解なんだ」 雨に濡れた髪をかき上げながら、若葉は値踏みするような視線を向けてくる。教室でこちらをみていた時と同じ、嫌な目だった。 「あの子と葵チャン、どっちが本命なの?」 いつからそこに居たのかは知らないが、別れ際の様子だけを見ても加南子との関係が良好なものでないことぐらい察せるはずだ。その上でこんな質問をしてくるなんて趣味が悪い。 「あなたに話すことはありません」 目撃されたことへの否定はしたが、プライベートを若葉に曝け出す気はない。何を返したところで面白がられることも明白だ。 これ以上会話をする意思もないと示すために、奈央は若葉の横をすり抜け、校門へと向かった。リーダーにカードをかざすと、ロックが解除された音が響く。 引き止めるような声を掛けてくるかと思ったが、若葉はそれ以上何も言わず、ただ立ち去る奈央の背にジッと視線を送り続けてきただけだった。それが余計に不穏な印象を与えてくる。 エントランスには葵たちの姿も、一組だけいた生徒も見当たらなかった。傘を持っているくせにずぶ濡れという異様な状態を誰にも見咎められずに済んで、安堵の息をつく。 だがそれと同時に、葵に会えなかったことを残念に思う気持ちも湧き上がってきた。こんな姿を見たら心配をかけることは明白なのに、癒されたいなんて図々しい願いがくすぶっている。 エレベーターがフロアに着くなり、静まった空間に寄り添うようなピアノの音色が届いてくる。櫻は依然として練習し続けているらしい。もう十分に素晴らしい仕上がりだと感じるし、何かに駆り立てられるように身を削る姿は、友人としては見ていられないものがある。 己に課せられたものに真正面から戦い続ける櫻。加南子を受け入れる覚悟も出来ず、かといって両親の期待を裏切りきれずにいる中途半端な自分とは大違いだ。 部屋に入るとピアノの音色はほとんど聞こえなくなる。いつもなら落ち着くと感じる無音の自室が、今夜は無性に寂しいと感じてしまう。たまらずに窓を開けに向かうと、雨音に混じって優しいメロディが流れ込んできた。 冷えた体を早く温めなくては風邪を引く。それが分かっていても、窓辺から離れる気にはしばらくなれなかった。

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