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act.8月虹ワルツ<55>
* * * * * *
“これから伺います”
到着の合図ではないというのに、こんなメッセージが届いた瞬間、忍はソファから腰を上げた。後輩が勉強を習いに来る。ただそれだけのシチュエーションだというのに、相手が葵というだけでどうにも落ち着くことが出来ない。葵と出会う前の忍を知っている友人たちは、きっとこんな姿を見たら笑い飛ばすに違いない。
エレベーターが一階から上がってきたことを告げるランプを見つめながら、忍は深く息をついていつも通りの表情を整えた。
「待っててくださったんですか?」
扉が開くなり現れた忍の姿に、葵は素直に驚いてみせた。
「もしかして遅かったですか?ごめんなさい、まだ速く歩けなくて」
「そうじゃない。すぐに会いたかっただけだ」
サポーターを付けた足首にチラリと視線を落とし申し訳なさそうにする葵に、忍は惜しげもなく本音を打ち明けた。さっきの努力は早速無駄になっただろう。今自分が随分甘い顔をしている自覚がある。
葵だけをこの部屋に招くのは、これが二度目だった。とはいえ、一度目は始業式の日、櫻に泣かされた葵を保護する名目で連れ込んだだけのこと。櫻や奈央抜きできちんと招待するのは初めてだった。
葵も落ち着かないようで、ソファに座ったはいいものの、そわそわと周囲を観察している。
「昼食は?きちんと食べたのか?」
「はい、みゃーちゃんのデザートももらっちゃいました」
「そうか。食欲があるなら良かった」
おそらく都古からは貰っただけではなく、自分の皿を空にする手伝いを依頼したのだと予測はつく。だが心配をかけまいとする葵の強がりを暴く必要はない。
試験初日の今日は、三年よりも二年のほうが一限分早く終わる予定だった。葵は皆揃って昼食をとりたかったようだが、櫻ははなから参加する気がないし、幸樹も現れるかどうか定かではない。奈央ですら、今日は寝不足らしく試験後すぐに仮眠をとるつもりだと言う。
つまりは忍一人を待たせることになる状況だったのだ。葵と少しでも長く過ごしたい思いはあれど、さすがに先に食べていろと促す他なかった。
「奈央さん、大丈夫でしょうか?」
「櫻と同じぐらい青い顔をしていたからな。朝方まで机に向かっていたんじゃないか?」
真面目な気質の奈央が根詰めて勉強することは何も珍しいことではない。役員になるのを機に習い事をやめてからは生活に余裕が出たようではあるが、試験の際にはやはり多少の無茶をしているように見受けられる。
だから忍はさして気にしていなかったのだけれど、葵は何かを考えあぐねるように視線を落とした。
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