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act.8月虹ワルツ<56>

「何か気になることでも?」 尋ねると、葵はさらに悩むような素振りを見せたあと、昨夜の出来事を打ち明けてくれた。奈央が寮の外に出掛けていったのだという。夜空を拝める天気ならまだしも、あの雨の中では勉強の合間の気分転換とも考えにくい。 「あの人がまた来てたってことは有り得ますか?」 「あの人?あぁ、貫井の令嬢か。さすがに訪問してくるにしては時間が遅すぎる気がするが」 「……そう、ですよね。考えすぎですよね」 葵は納得したように張り詰めていた表情を緩めたけれど、奈央への執着度合いを考えれば無いとは言い切れない。 もしも夜中に加南子が寮までやって来たとあれば、奈央の性格だ。連絡に気付かないフリでもして無視するような真似が出来るはずもない。人目を忍んで会いに行こうとするのも筋が通る。 前回加南子に見られたという葵の写真の件で何か脅しでもかけられたか、それとも婚約の話が先に進んだのか。いずれにしても奈央にとって良くないことが起きたからこそ、眠れない状況に陥ったのかもしれない。 気持ちを切り替えてテーブルの上にテキストやノートを広げる葵を横目に、忍は相変わらず立ち回りが下手な友人を思い、息をついた。 「それで、今日の出来はどうだった?」 「ダメではないと思います。でも、良かったとも言えなくて」 「まだ初日だ。これから取り返せばいい。終わったことは引きずるな」 科目ごとの成績も大事ではあるが、順位は総合得点で決まる。それに、葵の自己評価が極端に低いことは知っている。葵の“いつも通り”に満たない結果でも、残り三日で十分に巻き返せる点数は取れているはずだ。 「数学以外もあとで見てやるから」 付け加えながら葵の頬に触れると、ようやく俯きがちだった顔が上がった。 いつもなら甘い蜂蜜のような色をした瞳と視線が絡むだけで、すぐにその手のペンを取り上げ、抱きすくめたくなるだろう。だが、一ノ瀬の起こした一件を考えれば、今の葵に何か仕掛けようとはさすがに思えない。 撮影されたデータを見たわけではないが、倉庫の後処理をしたのは忍だ。具体的にどんなことが行われたかは簡単に推測できる。早く戻って来てほしいという願い通り、葵は学園に現れた。だがたった一週間休んだだけで到底回復できるはずもない。実際どう接してやるのが正解なのか、未だに手探りの状態である。 今はただ、良き先輩として接するべきなのだと思う。

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