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act.8月虹ワルツ<57>
「なんだ、きちんと解けているじゃないか。何がそんなに不安なんだ?」
初めこそ、忍に観察されながら問題を解くことに緊張していた様子だったが、ペースを掴み始めたらスムーズにペンが進んでいく。苦手だというわりに、解法も答えも、ミスは見当たらない。
数問進んだところで口を挟むと、葵は気まずそうに忍を見上げてきた。
「このあいだ櫻先輩に見てもらって、コツを掴めたような気はするんです」
そういえば模擬試験のあと、葵の勉強に付き合っていたのは櫻だった。誰かにものを教えられる性分ではないと思っていたが、櫻なりに役割を果たしていたらしい。
「試験だと“絶対に間違えちゃいけない”って思って、慌てちゃうんです」
「それならいくら事前に勉強しても意味がないじゃないか」
この時間が無駄とまでは言わないし、目的はなんであれ葵と二人になれる時間は貴重だ。だが、葵はまず自己評価の低さをどうにかするべきなのかもしれない。
「もう少し自信を持ったらどうだ?俺が保証してやるから」
気休めにしかならない言葉とは分かっているが、掛けずにはいられなかった。
葵関連の金の動きを調べた際、葵が中等部の途中から奨学金の制度を利用していることを知った。西名家に負担を掛けないよう、十中八九葵が自ら選んだことなのだろう。どこか切羽詰まった様子で成績を維持しようとする理由にも納得がいく。
忍の家に負けず劣らず裕福な藤沢家の生まれだというのに、難儀なものである。
「会長さんは緊張しないんですか?」
「覚えはないな」
定期試験など、単に実力を試されるだけのこと。忍にとって緊張する類のものではない。それに、幼い頃から北条家の跡取りとしてあらゆる場面に引っ張り出されていたおかげで、並大抵のことで動じることはない。
「じゃあ最近何かで緊張したことはありますか?」
「そんなことが知りたいのか?変な奴だな」
好きな相手に興味を持たれること自体は嬉しくないわけではない。素直に記憶を辿っていくが、少なくとも直近では身に覚えがなかった。一つ思い当たるとすれば、冬耶から葵の過去を打ち明けられた時だが、本人には隠し通さなければならない話。
「……あぁ、生徒会の選挙演説。あれは少し緊張したかもしれないな」
葵の問いに対し何もないと言い切るのは簡単だが、それは期待に反する。かろうじて一つ思いついたことを口にすると、彼は心底意外そうに目を丸くしてみせた。
「え、ほんとですか?そんな風に全く見えなかったです」
「“少し”と言っただろう。それに、表に出さないよう努めたさ」
葵との距離を縮める。ただその目的だけで、それまで役員を務めていた同級生を押し退ける選択をとったのだ。勝機があると確信していたものの、大胆な行動に出た挙句万が一落選してしまえばみっともない姿を晒すことになる。それなりのプレッシャーは感じていた。
ただ、対抗馬もおらず当選確実だった葵のほうが忍よりもよほど緊張していた覚えがあった。舞台袖で繰り返し原稿を読む姿が忍の目には可愛く見えて、高校生活最後の一年を彼と共に過ごしてやろうと改めて強く意志を固めたのだ。
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