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act.8月虹ワルツ<58>

再び机に向かい始めた葵の手元を時折確認しながら、忍は読みかけの本を開いた。葵のペンの動きが止まれば都度声を掛けて、詰まっている原因を解消してやる。言葉通り勉強を見てやるだけの静かな時間だったが、満たされた気分になるのが不思議だ。 葵の集中が途切れたのは、窓の外が少しずつ薄暗くなって来た頃だった。数時間続けて机に向かっていた体を大きく伸ばしながらソファの背に凭れ掛かる姿を見て、忍も本に栞を挟んだ。 「休憩にしよう。紅茶で構わないか?」 「手伝います」 「いや、座っていろ。ただし、櫻みたいな味は期待するなよ」 紅茶に関してはうるさい友人の名を出せば、葵の表情が緩む。そして自然と窓のほうへと視線が向けられた。 「櫻先輩、本当にずっと弾いてるんですね」 葵の言う通り、薄く開いた窓からは櫻の奏でるピアノの音色が絶えず聞こえてくる。役員になる前は同室だったこともあり、忍にとってはすっかり日常の音になってしまっていたけれど、慣れない者からしたら気になるのかもしれない。 「すまない、窓を閉めておけば良かったな。うるさかっただろう」 「いえ、そんなことありません。櫻先輩の演奏を聴けるのはすごく嬉しいんです。ただ、大丈夫かなって」 葵はうっすらと聞こえる音色に耳を傾けながら、練習に明け暮れる櫻を気遣う言葉を口にした。 演奏会の前は食事の時間すら惜しむ彼だが、今回は葵が運んでくれる食事をきちんと口にしているらしい。だから状況としては大分マシだと感じるものの、常軌を逸した練習量なのは間違いない。 「櫻自身はなんと言っていた?」 「ちゃんとコントロール出来てるから大丈夫って」 「それなら心配はいらない。来週の演奏会さえ終われば、落ち着くさ」 湯気の立ちのぼるカップを差し出せば、葵は受け取りながら素直に頷いてくる。でも本心はまだ櫻の様子を気がかりに思っているようだ。 奈央といい、櫻といい、もう少し葵を心配させないように振る舞ってほしいものだ。せっかく二人きりというシチュエーションだというのに、葵は友人たちへの心配ばかりを口にする。彼らに邪魔をされている気分だ。 「でも、会長さんも櫻先輩が心配だったんですよね?」 「俺が櫻を?」 「だって食事を持って行くようにって勧めてくれたのは会長さんだから」 まさか葵が反撃してくるとは思いもしなかった。悪戯っぽく微笑まれて、一瞬返す言葉を失って口籠もってしまう。 たしかに食事をするのも忘れる友人のことを気がかりに思っていたことは事実。演奏会前は決まって普段以上に気難しくなる櫻でも、葵ならば受け入れると期待して差し向けたのも忍だ。

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