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act.8月虹ワルツ<64>
「勉強は?もう諦めたのか?」
歴代の手帳を見返しているうちにそれなりの時間が経ったらしい。顔を上げると、濡れた髪をタオルで乾かしながら呆れた表情を浮かべる京介の姿があった。
「懐かしいな、初めて買ったやつか」
「うん、よく覚えてるね」
「遥さんと似たやつにするって駄々こねて、散々付き合わされたからな。せっかく見つけても予算に合わないとか我儘言って」
京介の言葉でその時のことを鮮明に思い出す。そういえば買い物に付き合ってくれたのも京介だった。葵の記憶では二、三軒、店を回った程度だから、少し大袈裟な物言いの気もするが、気だるげにしながらも足りない金額分を出してくれるとまで言ってくれた。結局頼ることはせず、遥の手帳と色が似た安価なものを選んだのだけれど、迷う時間も含めていい思い出になった。
「コンビニ行ったことまで書いてんのか」
断りもなくページを捲った京介は、些細な日常の予定を見つけ笑い始める。天気の良い休日に、二人でジュースとかお菓子とか、そんなものを買いに出掛けていたから、これもきっとその一つなのだと思う。
「今も書いてんの?」
「コンビニはさすがに書いてないよ」
「そっか。もう特別なことじゃなくなったんだな」
家から出ることを恐れていた時代を知っているからこそ、京介はそんな風に表現したのだろう。特別だったことが当たり前になっていく。昔に戻りたいとまでは思わないけれど、不思議と寂しい気持ちになるのは何故なのか。
「京ちゃんと別々の部屋になるのも、いつか当たり前になるのかな」
葵が何の気なしに発した言葉に、相変わらず手帳を眺めていた京介は驚いたように顔を上げた。
「……なんとなく、言ってみただけ」
引っ越したくないのだと受け取られかねない発言だった。そう思って言い訳のように付け足してみたが、京介は少し考えるような素振りを見せたあと、葵にとっては難しいことを言ってきた。
「葵が当たり前にしたいのか、そうじゃねぇのか。それによるんじゃね?」
「どういうこと?」
「少なくとも俺は当たり前にするつもりはねぇから」
はっきりと言い切られても、京介が何を伝えたいのか分かるようで分からない。もっと京介の気持ちを理解したいと思っているのに、ちっとも上達しない。京介はずっと葵に寄り添ってくれているというのにだ。
京介とまた長い時間を過ごせば理解できるようになるのだろうか。いや、昔だって京介が考えていることが手に取るように分かっていたわけではない。京介の背中を追うので精一杯だった。
「京ちゃんはどうして、ずっと優しいの?」
曖昧な記憶の中でも、自分が京介にとっていい遊び相手でなかったことぐらいは覚えている。本を読んだり、絵を描いたりして時間を潰すことしか出来なかった葵に、退屈そうにはしながらも見離さずに寄り添い続けてくれた。
「んなこと改まって聞いてくんな。いい加減分かれよ、バカ」
葵の額を乱暴に小突いた京介は、また浴室のほうへと消えてしまった。しばらくしてドライヤーの風音が聞こえてきたから、髪を乾かしに行ったのだと理解する。
学校で習う勉強のように、どこかに答えの載っているテキストでもあればいいのに。ふわふわと彷徨い揺れる心をどこに着地させるべきか分からず、葵はそんな無意味なことを考えながら京介の帰りを待つのだった。
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