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act.8月虹ワルツ<71>

「あぁ、そうだこれ。洗濯してたせいで、すっかり忘れてたんだ」 帰り支度を整える冬耶に、宮岡はこの部屋に呼んだもう一つの理由を思い出した。あの日葵が羽織っていたパーカー。あれから返すチャンスはあったというのに、ずっと置きっぱなしになっていたのだ。 サイズからして冬耶のものだろう。そう思って差し出してはみたものの、冬耶は躊躇うような素振りを見せてなかなか受け取らない。 「すみません、嫌なこと思い出させちゃいましたか」 「いや、違うんです。これ、俺のじゃなくて……」 歯切れの悪い答えで、ようやく宮岡もその持ち主に当たりがついた。葵を監禁したのは教師だというが、さらにそこから攫った人物がいるとは聞いていた。それが冬耶に恨みを持つ相手だったせいで、はじめはその男が主犯だと思い込み、随分動揺していたことも覚えている。 「でも、そうですね。一度話はしなくちゃと思っていたので。ありがとうございます」 宮岡の手からパーカーを受け取る冬耶の表情は、いつもの穏やかな人柄が窺えるものではない。冷たいながらも、怒りの滲むようなもの。 二人のあいだにどんな因縁があるのかまでは宮岡が口を挟む問題ではない。だから宮岡はこの流れでもう一つ、気に掛かっていたことを彼に尋ねてみた。 「例の教師は今、どうしてるんですか?」 葵にしたことは間違いなく犯罪に値する行為だ。本来ならば然るべき形で刑罰が下されるべき。宮岡は初めからそう主張しているのだが、冬耶は頑なに自分の手で対応すると言って聞かない。 教師の身柄を確保し、私刑を下したとて何が解決するというのだろう。葵が望むわけもない。賢い冬耶ならば、宮岡がわざわざそんなことを言葉にせずとも重々承知した上で、事に及んでいるのだろうから尚更厄介だ。 「それを教えたら、先生が秘密にしていることも話してくれますか?」 「私が秘密にしていること、ですか」 「“ゴシップの種”」 以前葵のカウンセリング時に触れた話を、冬耶はきちんと覚えていたようだ。駆け引きの材料にしてくるとは、やはり彼は普段見せている温和な面とは違う一面を隠し持っているようだ。 「エレナさんに関することですよね」 「どうしてそう思うんですか?」 「嗅ぎ回っている人間がいれば察しぐらいつきますよ」 鎌をかけているとも思ったが、冬耶の目には確信めいた色が浮かんでいた。十も年下だからといって、油断していい相手ではないようだ。 「先生が話す気ないならそれでもいいですけど。あーちゃんを傷つけることになったら、いくら先生でも許しませんからね」 にこりと笑いながら言う台詞ではない。彼はそのまま友好的に手を振って出て行ってしまったが、結局のところ宮岡が聞きたかったことには一切触れられなかった。 宮岡への牽制か、それとも話をはぐらかすことが目的か。思っていた以上に掴みどころのない人物のようだ。 「……少し早まったかな」 直情的な椿と対峙しても、冬耶ならばうまく相手が出来るはず。そう判断して二人を引き合わせる選択をとったものの、万が一冬耶が椿を敵と認識した場合は事態がますます面倒なことになるだろう。 マンション前の駐車場から去っていく赤い車を見送りながら、宮岡は込み上げてくる不安を紛らわせるように瞼を伏せた。

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