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act.8月虹ワルツ<73>
「……アオ」
「ん?どうしたの?」
何かを伝えたかったに違いない。でも葵が尋ね返しても、都古はすぐに首を横に振って口を噤んでしまった。連絡を止めるような仕草。そこに都古の気持ちが込められているのだろうか。
都古は以前に比べれば大勢での食事を嫌がる素振りは見せない。参加もしてくれる。でも葵とただ静かな時間を過ごすことを彼が強く望んでいることは知っている。葵を気遣って、しばらくは我儘らしい我儘を言わずに我慢していることも。
だから葵はもう一度尋ねる代わりに、すぐ隣にいる都古にメッセージを送ることにした。
「みゃーちゃん、携帯見てみて」
「俺に、送った?」
葵の行動を都古は訝しんだが、指示通りに携帯を開くなり表情が和らいだ。昼食の前に少しだけ昼寝をしようと誘ってみたのだ。都古からは目をハートマークにした黒猫のスタンプが返ってくる。きっと都古をよく知らない人は、彼がこんなに可愛い表現をするなんて想像出来ないだろう。
隣同士でやりとりするなんてと京介にはまた馬鹿にされそうだが、自分たちはこれでいい。
皆にはもう少しあとで昼食を食べると連絡を入れ、二人で向かった先は校舎の屋上。定番の中庭は今の時間帯、寮へと向かう生徒でそれなりに人通りが多そうだったから、静かな場所を選んだのだ。
試験が終わればまっすぐに帰るのが普通だ。その狙い通り、屋上には誰の姿もなかった。
「晴れてよかったね。試験中ずっと雨だと思ってた」
一日雨という予報は外れ、朝降っていた小雨は今はすっかり上がっている。雲の隙間から眩しいくらいの光が差し込んでいた。その眩しさに目を薄めると、都古が庇うように手を翳して影を作ってくれる。
葵にだけ真っ直ぐに捧げられる彼の優しさ。それに触れるたびになぜか胸が切なくなる。この痛みをなんと表現したらいいのか、葵には分からなかった。
身を隠す必要はないが、二人で出来るだけ静かに過ごすために選んだのは給水塔の裏。壁に凭れるように腰を下ろすと、都古は躊躇いなくコンクリートの地面に寝そべり、葵の膝の上に頭を乗せてくる。
「今日はどうだった?」
「……がんばった」
今までは諦めた顔をするばかりだった都古。その彼が多少なりとも前向きな発言をしてくれるだけで、葵を喜ばせる。褒めるように黒髪に指を通して梳いてやれば、都古もまた、嬉しそうに目を細めた。
初夏の陽だまりのなか、こうして都古と二人穏やかな時間を過ごしていると、少し前に自分の身に起きたことが嘘のように思えてくる。
あれから校内で一ノ瀬の姿を見ることはない。彼が担当する生物の試験問題を用意するのに、学園側は随分とバタついたらしいと誰かが話しているのを耳にした。試験が明けたら臨時の教員が来るとも案内されている。冬耶の言う通り、きっとこのまま一ノ瀬に会うことはないのだろう。
でももしもどこか、例えば街中で彼とばったり出会ってしまったら。その時自分はどんな顔をするべきなのか分からない。
「……ッ」
「アオ?何、考えてた?」
不意にひやりとした手に頬を撫でられ我に返ると、こちらを見つめる黒い瞳と視線が絡んだ。
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