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act.8月虹ワルツ<74>

「こわくない、ね?」 「うん、ごめん。大丈夫、ぼーっとしてただけ」 あのあと片時も傍を離れずに居てくれた都古のことだ。葵が誤魔化したところで、無駄なのだと思う。上体を起こした都古に抱きすくめられるのを、葵は大人しく受け入れた。 このあとどうなるか予想がつく。慰めるように額や目元におりてきた唇のその先を読んで思わず目を瞑った時だった。 遠くで乱暴にドアの開かれる音が響き、こちらのほうに向かってくる足音が聞こえてきた。京介には都古と屋上に居ることは伝えている。だからその相手が彼だと疑わずに、葵は給水塔裏から顔を覗かせた。 「京ちゃ……」 呼び掛けた名前は途中で都古の手の平に塞がれた。いつでも優しく触れてくる都古にしては乱暴な手つき。その理由に、葵は少し遅れて気が付くことになる。 屋上への来訪者は葵のよく知る幼馴染ではない。長身の京介よりもさらに大きく見えるその人物は、燃えるように赤い髪色をしていた。見覚えはある。たしか冬耶と同じ学年だった先輩のはず。 でも、人違いをしただけで都古が焦る理由が分からない。 「アオ、静かにね」 給水塔の影に葵を引き戻し、耳元で囁いてくる都古が緊張した面持ちになるのが何故なのかも。尋ねようにも黙れと指示されていては叶わない。 あの赤髪の先輩は誰かと連れ添っているらしい。内容までは分からないが、葵たちのいる給水塔の真裏から会話のようなものが聞こえてくる。そうしてしばらく息を潜めていると、悲鳴にもとれるような声が葵の耳に届き始めた。 助けを求めるような言葉と、それを嘲るような笑い声。途切れ途切れではあるが、どう考えても平和的な状況ではない。 「みゃーちゃん」 自分が何をすべきか分からないまま声をひそめて都古を呼ぶと、彼はただ首を横に振って葵を再び抱き締めてきた。何の音も聞こえないように、今度は両耳を彼の手で覆われる。でも無音は余計に恐ろしくなる。 体格の差を考えると、あの大柄な生徒がもう一人の相手を痛めつけているのだと思う。非力な葵が出て行ったところで、力づくで止められるはずはない。共にいる都古まで巻き込みたくもない。けれど、見て見ぬフリをすることも出来そうになかった。 何か揉め事が起こった時、生徒会役員である先輩たちが顔を出すだけでその場を治める姿は何度も目にしてきた。今まで葵は自分の立場を利用する機会がなかったけれど、今がその時なのかもしれない。 それに相手が誰であろうと、第三者がいると分かった時点で驚いて立ち去ってくれることも有り得る。葵はその可能性に賭け、都古の腕から抜け出してもう一度身を乗り出してみた。 「アオ」 「……なに、してるの」 すぐに都古に捕まり、咎めるように一層きつく抱えられたけれど、見えてしまった。ほとんど制服を身に着けずに四つん這いになる人物に覆い被さる赤髪の彼の姿。 京介が喧嘩をする姿は何度も目にしたことがある。だからきっと今行われているのも、人を殴ったり蹴ったり、そんな光景だと思っていた。でも一瞬見えたのは、葵が初めて出会うもの。葵が知らないだけで、あれも喧嘩の形なのだろうか。 理解が追いつかずに固まる葵の背中を都古は宥めるように摩ってくれるが、衝撃はちっとも治らない。嫌な記憶ともリンクしてしまうのだ。 葵もああして服を脱がされ、四つん這いの姿勢を維持させるために手足を拘束されたことがある。もしかしてあの行為の行き着く先は、今身近で起きているアレなのか。

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