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act.8月虹ワルツ<75>

「アオ、大丈夫。息して」 葵の異変に気付き、都古がまた耳元で囁いてくる。促されて初めて、自分の呼吸が浅くなっていると自覚した。このままだと過呼吸の症状が出るかもしれない。焦ってはいけないと思えば思うほど、胸が苦しくなっていく。 都古の肩に縋り、視界が白んでいくのに身を任せてどのぐらいの時間が経ったのだろう。突然都古の後ろに鮮やかな赤色が現れた。 「葵チャン、相変わらず隠れんぼ下手くそだネ」 まるで親しい友を呼ぶような声音。でも葵の記憶の限りでは、目の前の彼と会話をしたことはない。そのはずなのに、違和感があるのも事実。 「アオ、行こ」 何と返答すればいいのか悩む間もなく、都古は葵の手を引き、強引に立ち上がらせてくる。だが、葵がその誘導に身を任せようとした次の瞬間には何故か都古の身体がコンクリートの上に叩きつけられていた。 「……え、みゃーちゃん?」 「ねぇ葵チャン、俺のパーカーどこあんの?あげたわけじゃないんだけど」 何が起こったのかが分からない。でも葵を真っ直ぐに見据えたままの彼が都古に何かをしたのは間違いない。それなのに都古を一瞥もせず、会話でも一切触れてこないことが葵の恐怖をひどく煽る。 「聞いてんの?パーカー、返してって」 「知り、ません」 「恩知らずなうえに嘘つきなの?寒いっつーから貸してあげたのに」 葵には何の覚えもない話。そう訴えても、相手はちっとも許してくれそうにない。都古に駆け寄ることも彼の手で遮られて叶わない。 葵の顔を包み込めそうなほど大きな手は、そのまま近づき頬に触れてくる。彼が身に付けるシルバーの指輪の冷たさと、ふわりと香る煙草と香水の混ざった匂い。たしかに自分はこれを知っている。 あの夜、一ノ瀬でも冬耶でもない香りの記憶は自分の勘違いではなく、彼のものだったのか。欠けていたパズルのピースが嵌っていく感覚は、宮岡とのカウンセリング時のようだった。 でも彼から服を借りることになった経緯が分からない。あの夜のいつの出来事なのかも。記憶を辿ろうとしても、当時の恐怖ばかりが蘇ってきて頭が割れるように痛んでくる。 「アオに、触んな」 「へぇ、あれでよく受け身とったネ。てか喋れんだ、すげぇ」 背後から都古の苦しげな声が聞こえてきた。自らの腹を押さえながら身を起こそうとする都古の姿は、複数を相手にした喧嘩の時よりもよほど辛そうな表情を浮かべている。 「あっちも楽しそ。葵チャン、ちょっと待っててネ」 初めて都古に視線をやった彼は、金色の眼を輝かせ始めた。楽しげに自身の唇を舐める仕草も、その拍子に覗く尖った八重歯も、まるで獲物を狙う獣のようだと感じる。 「やめてください!」 「んー?ナニ、先に構ってほしいの?」 まだ上体を起こすのもやっとな都古にこれ以上近づかれたくない。その一心で彼の腕を掴むと、どこか満足そうな笑顔で見下ろされた。改めて向き合うと彼は幸樹と並ぶぐらい背が高い。それに布越しでも分かるほど、掴んだ腕は筋肉質で硬い。 「なんでこんなこと……」 躊躇いなく人に手を上げられる彼と、まともに会話することなど叶わない気はする。それでも、聞かずにはいられなかった。 もしも彼の言うように、葵がパーカーを借りたまま返していないというのならば、都古には何の用もないはずだ。いきなり傷付ける理由など存在しない。

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