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act.8月虹ワルツ<76>
「借りたもん返さないどころか、礼も言いに来ないんだから。無視するつもりだった?」
顔を覗き込まれ、尋ねられると何も言えなくなった。そのまま噛みつかれてしまいそうだ。でも、彼の香りを嗅ぐとただ怖いだけではない感情が滲んでくる。不思議な感覚だった。
「いつの、話ですか?」
やはりあの夜出会っていたのか。この香りを安心するものと自分が認識しているからには、彼は葵を助けてくれたのかもしれない。それならば、彼が葵を追及してくる道理は分かる。都古が無関係であることには変わりないのだけれど。
「あぁ、そういうこと?なんも覚えてないワケ?」
「あの……はい、ごめんなさい」
彼の表情から笑顔が消えた。都古が絞り出すように“逃げろ”と言っているのが聞こえるけれど、都古を置いていけるわけもない。それに、彼を怒らせたまま逃げても何も解決しないだろう。葵には素直に謝る以外の選択がなかった。
「葵チャン、ラリってたもんネ。まぁ仕方ないか。でも西名が何も話してないってのはムカつくなぁ」
「お兄ちゃんのこと、知ってるんですか?」
あの夜葵を迎えに来てくれたのは冬耶。だから彼の言う“西名”が京介ではなく冬耶だと判断して確認してみたのだが、それがますます彼の機嫌を悪化させたようだ。鋭い目が一層きつく薄められる。
「……お前、まさかとは思うけど、俺のこと誰か分かってない?んなワケないよネ?」
親しげだった呼び方が変化し、上向かせるようにネクタイが掴まれる。自然と首が締まり、答えようにも声が出せない。
「T.Nか。これ、“お兄ちゃん”の?」
彼は葵のネクタイに刻まれたイニシャルに気が付き、さらに質問を重ねてきた。必死に頷いてみせると、急に首元が解放され、浮きかけていた体が一気に床へと落とされた。
彼が手にするブルーの布を見て、ネクタイを奪われたのだと理解するが、きつく絞められていた喉を押さえて呼吸を整えるので精一杯。
「パーカーと交換ネ。返して欲しかったらおいで。そん時は全部思い出させてあげる」
そう言って彼は葵の頭をひと撫ですると、首にかけたヘッドホンを耳に当て直し、何事もなかったかのように立ち去ってしまった。葵は後ろ姿が完全に消えるのを待たず、都古の元に駆け寄った。
「みゃーちゃん!」
あの都古が未だに起き上がることが出来ずに居るなんて、余程容赦のない力で蹴り上げられたのだろう。なんとか動こうと試みているようだけれど噛み締めた唇に血が滲むだけ。その姿が痛々しくて、堪えていた涙が一気に溢れてくる。
「ここ、痛い?」
さっき絞められた首元が赤くなっていたのかもしれない。都古が震える手を伸ばし、肌に触れてくる。葵のことなどどうでもいいのに。いつだって葵を最優先にする都古の態度に、ますます涙が止まらなくなった。
それを指先で優しく拭ってくれるのもまた愛しい飼い猫。彼とただ穏やかな時間を過ごしたかっただけ。それなのにどうしてこんなことになってしまったのだろう。
「みゃーちゃん、ごめん、ごめんね」
屋上になんて誘わなければ良かった。都古の忠告通り、大人しく時が過ぎるのを待てば良かった。記憶が定かではないままだけれど、そもそもあの人を怒らせることをしたのは他でもない葵。都古はただ傍に居ただけ。
いくら謝っても謝り足りない。でも葵が何度も繰り返す謝罪を、都古は自身の唇で塞いで止めてきた。触れるだけのキスは仄かに血の味がして、葵を余計に苦しくさせた。
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