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act.8月虹ワルツ<77>

* * * * * * 面白くない。今の感情を一言で表すならこれに尽きる。 屋上に先客が居ることには初めから気が付いていた。若葉にとっては些細なこと。だから無視をしていただけ。だが、視界の端に一瞬覗いた金髪でそれが葵だと分かった時、自分でも驚くほど気分が高揚した。 いつもなら相手の過度な嬌声を不快だと思うけれど、葵の耳に届くよう、あえて激しく声を上げさせたりもした。 葵が一体どんな顔をしてそれを聞いているのか。触発され、あの夜のような表情を浮かべて、次に捕食されるのを待っていればいい。 そんな若葉の期待に反し、葵は連れの男の手により視界も聴覚も奪われた状態で抱きすくめられていた。拒絶するような仕草は若葉を無性に苛立たせた。 一ノ瀬から与えられた薬のせいで意識が混濁していたことは分かっている。それでもあれほど若葉から離れたくないと甘え、縋ってきた記憶が綺麗さっぱりなくなっているのはつまらない。 それにあの夜の記憶どころか、若葉の存在自体を正確に認識していない素振りだった。連れを傷つけられた腹いせに煽ってきた可能性も考えたけれど、とぼけている様子はなかった。あれがもし演技だったら大したものだ。 あのまま苛立ちに任せて葵を抱くことは出来た。でもそうしなかった。怯え、泣きじゃくる姿よりも、未だに思い出すだけで堪らない気持ちにさせられるあの夜の葵のほうが若葉には魅力的に思えたから。 それに当初抱いていた印象通り、再会した葵は子供っぽく、それほど食指が動かなかった。雑食な自覚はあるし抱けないわけではないが、願わくはあの夜の葵が欲しい。 「ラリってたほうが可愛く見えんのかネ」 奪いとったネクタイを手の中で弄びながら、ついそんなぼやきを口にしてしまう。こんなものを取り返すために、葵自らが若葉の元にやってくるとも思えない。ただ絡む口実があればそれで良かった。もしかしたら余計なものまで釣れてしまうかもしれないが。 そこまで考えて、若葉は視界の先に新たな玩具を見つけて口元を歪めた。 「……それ、二年生のネクタイですね。どうしたんですか?」 見た目に反して気が強い彼は、若葉に怯むことなく真っ直ぐに立ち向かってきた。どこぞの下級生が若葉の被害にあったのだと思ったのだろう。役員としての責任感が強いのは結構だが、このネクタイの持ち主が可愛がっている相手だと知ったらきっと狼狽するに違いない。 「拾ったの」 「では、僕から返しておきます」 「その子に直接渡すから大丈夫。奈央サマは親切だネ」 おちょくるように呼び掛ければ、彼の整った顔に嫌悪感が滲んだ。素直で嘘のつけない人間はからかい甲斐があって面白い。 「なんでこんなとこ居るの?暇なら俺と遊ぶ?」 「あなたには関係ありません。結構です」 若葉と話しても埒が明かないと判断したのか、奈央は律儀に拒絶を言葉にすると、若葉の隣をすり抜けていこうとする。その先にあるのは屋上へと向かう階段だ。 「もしかして、葵チャン探してんの?」 去りかけた背中に呼びかけると、面白いくらいにぴたりと足が止まる。 あのあと葵が奈央に助けを求めたのか。それとも元々あの場所に居るのを知っていて、迎えにやってきたのか。どちらかは知らないが、葵と親しげな関係を見せつけられると、余計に彼に突っかかりたくなる。 さらに彼の眼前でネクタイのイニシャル部分が見えるようにチラつかせれば、色白の顔が一気に青ざめた。ネクタイに刻まれた刺繍が示すものは葵のイニシャルではないが、今の持ち主が葵であることを知っていたらしい。

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