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act.8月虹ワルツ<79>

* * * * * * 呼吸に合わせて肺が動くだけで痛みが走る。加減なく蹴り上げられたせいで、肋骨にヒビでも入ったか。もしくは完全に折れているのかもしれない。 鎮痛剤を飲み湿布を貼ったおかげで動けるようにはなったが、葵の前で平常を装うにはまだ無理がありそうだった。 「みゃーちゃん、やっぱり病院行こう?」 布団に潜り込む都古に、葵は片時も傍から離れず声を掛け続けてくる。大丈夫といくら言い聞かせても全く諦めてくれそうにない。 若葉が屋上から去った後、次に現れたのは奈央だった。そのおかげで今回の件は生徒会のメンバーや、京介、果ては冬耶にまで知られることになってしまった。 葵を連れて逃げようとした矢先に不意打ちで蹴り上げられたとはいえ、身動きが取れないほどダメージを受けたなんて情けない事実、出来れば隠し通していたかった。 葵を庇いながら戦うのは難しい。そう判断して背を向けることを選んだが、こんなことになるなら幸樹や冬耶の忠告を受け入れなければよかった。葵を逃がし、安全が確保されるまでのあいだあの男を食い止められればそれで十分だったのに。 「アオ、勉強は?」 「みゃーちゃんが治療受けてくれたらする」 「だから、平気」 都古の我儘には弱い葵も、今は意地でも許さないスタンスで臨んでくる。泣き腫らした顔で叱ってきても迫力はないどころか、可愛いだけなのだけれど、今それを言えばますます叱られる気がする。 「葵、いい加減ほっとけ。本人が大丈夫だっつってんだから」 膠着状態を救ったのは、意外にも京介だった。葵と都古の埒の明かないやりとりを呆れた顔で眺めていた彼は、煙草を吸い終えると同時に腰をあげた。 「肋骨って結構簡単にくっつくから。医者行ったとこで痛み止めと湿布もらって終わりだし、今と大して変わんねぇよ」 「でも……もっとひどい怪我だったら?」 経験者らしき京介の説得に、頑なだった葵の態度がわずかに軟化する。 「今日様子見て、んでダメだったら明日行きゃいいじゃん。それにお前がいつまでも隣でビービー泣いてたら休めねぇだろ」 乱暴な言い方ではあるが、今の都古にとってはありがたい助け舟だった。ダメ押しのように都古のための食事を持ってくることを提案して、ようやく葵は諦める様子を見せてくれた。 「みゃーちゃん、何なら食べられそう?」 「おにぎり。梅と鮭」 都古が希望を伝えると、食欲があることに安堵したようだ。葵の表情が和らぐ。 「とりあえず顔洗ってきな、葵」 涙で濡れたままの状態を京介に指摘され、葵は寝室を飛び出して行った。今は都古のために希望通りのものを届けることが葵の最優先事項になったのだろう。 「……で、なんであっさりやられてんの?」 「京介に、言われたくない」 葵が出て行くなり、京介はすぐに茶化してくる。若葉に殴られて出来た怪我を暴いたことへの意趣返しに違いない。 「お前が一発でダウンしたってのが、普通に気になってんの。さすがに若葉相手に勝てるとは思ってねぇけど、もうちょっといい勝負になんのかと思ってた」 今度は都古を馬鹿にするような雰囲気は感じられない。都古の強さを認めた上で、違和感を覚えているようだった。 実際のところ都古も自己評価は似たようなもの。ただあの時の状態を言葉で説明するのは難しい。 若葉が屋上に来るなり始めた性行為は葵に大きなショックを与えたようだったが、それは都古も同じだ。一方的で暴力じみた行為の光景は、自分が受けてきたものと重なる。封じ込めてきた記憶が嫌でもチラついてしまった。 葵の耳や目を塞いでショックを緩和してやる代償として、都古はずっと行為の音を聞かされていた。葵を守るという目的でギリギリ保てていただけで、吐き出しそうなほど気分が悪かったのも事実。 葵だけを逃がすことをせず、自分もあの場所から逃げ出そうとしたのはきっとそのせいだ。今もまだあの不愉快な音が耳に残っている気さえする。

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