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act.8月虹ワルツ<80>
「兄貴が話つけるってよ。ちなみに、俺も若葉に手出すなって言われてっから」
冬耶の伝言を伝えるだけでは都古が納得しないとでも思ったのか。京介は自分も牽制された事実を付け加えてきた。意識的にしていることなのか分からないが、こういうところは陽平や冬耶と似ていると感じる。
でもそれで引けるわけがない。あの男は葵の首を絞めるような真似をした。幸い、葵の肌に浮かんだ赤い痕はすぐに消えてくれたけれど、恐怖心を植え付けたことが許せない。
「みゃーちゃん、すぐ戻ってくるからね。何かあったら連絡して」
京介からの忠告に答えず黙っていると、葵が寝室に戻ってきた。涙の痕跡を拭い去り、安心させるように笑顔を見せてくれる。あんな風に無理をさせているのは、都古に他ならない。自分が不甲斐なくて堪らなかった。
葵が部屋を出て行った音がしてようやく、都古は気を抜くことが出来た。でも目を瞑ると嫌なものが蘇ってしまいそうで、葵が枕元に置いてくれた携帯を手にして気を紛らわす。
冬耶は都古の携帯にも周囲の人間の連絡先を登録していた。それに、都古の連絡先も勝手にばら撒いたらしい。そのおかげで冬耶だけでなく、忍や奈央からのメッセージが届いていた。内容が想像出来るだけに開くのも億劫だが、あいにく通知画面でそれなりの文字が視界に入ってしまう。
忍からは残りの試験日を特別にずらしてもいいという提案。奈央はただ都古の体調を気遣う言葉を送ってきていた。
これ以上惨めな気持ちにさせないでほしい。開いたばかりの携帯を放り投げたくなった時、新たなメッセージが届いた。
“鮭なかった”
シリアスな空気をぶち壊す平和な文字。送り主はもちろん都古の飼い主。
“梅はある!昆布と青菜にする”
写真と共に続け様に送られてくるメッセージ。葵が京介と共に悩みながら選んでくれている姿が簡単に浮かぶ。困らせないために具体的な希望を伝えただけで、葵が選ぶなら何だって構わないというのに。
返事を打つ代わりに、都古の感情を黒猫に託す。葵に教えてもらったものの、文字を入力するのはまだ少し時間が掛かるのだ。
「……ッ」
葵を迎えるための準備として布団に手を付き上体を起こそうとすると、胸が軋むように痛む。だが痛みを避けるように体を捻ればそれは緩和される。
──大したことない。
葵をもう危険な目に遭わせるわけにはいかない。都古に出来るのは葵の傍から離れないこと。病院に行って下手に安静を命じられても困る。学校を休むつもりもない。
「みゃーちゃん、ただいま……て、え、なんで起きてるの?」
帰ってきた葵をベッドに腰掛けた状態で迎えれば、案の定叱られるけれど。
「もう、治った」
都古の宣言に葵は困った顔をして抱き締めてくれる。こんな風に振る舞うことしかできない都古を、結局は受け入れてくれるのだ。
都古からも葵の体を抱き寄せながら、甘えるように首元に顔を埋めてみる。“くすぐったい”と笑う葵の柔らかい声で耳が満たされていく。それだけでべったりと纏わりついていた不快な記憶が溶けていくのだから不思議だ。
葵の記憶も都古ほど単純に上書きしてやれればいいのに。都古はもどかしい気持ちを堪えながら、シャツから覗く白い首筋にそっと口付けた。
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