1184 / 1636
act.8月虹ワルツ<82>
寮の浴槽は二人で入るには少し狭く感じるけれど、無理な広さではない。向き合うように体を沈めれば、張っていたお湯が音を立てて溢れていく。
都古は乳白色の湯を両手で掬い上げ、水鉄砲を仕掛けてくる。いつもするじゃれ合い。でも今はそれに乗る気にはなれなかった。なんと切り出せば良いか分からず黙ったまま都古を見つめると、彼は葵に向けて構えていた手を下ろす。
「そんな顔、しないで」
一体どんな表情を浮かべているのか分からない。都古の言葉を確かめるために浴室の壁に貼られた鏡を覗き込んでみる。そこには今にも泣き出しそうな自分がこちらを見つめていた。
「アオは、悪くない」
屋上での出来事から、都古に何度言い聞かせられたか分からない。言われていることの意味は分かっているつもりだけれど、素直に頷けないでいる。
「あの夜のこと、まだ思い出してないことがあったんだなって。そのせいでみゃーちゃんのこと、巻き込んじゃった」
馨を追いかけた先で、一ノ瀬に捕らわれた。そして兄が助けてくれた。その流れに違和感があったのは事実。あの香りは記憶違いではなく、確かに存在していたもの。
赤髪の上級生が“九夜若葉”という名前であることは、奈央から聞いた。耳にしたことのある名前だったけれど、ああして対面する機会がなかったから顔と名前が一致していなかった。卒業せずに留年している事実も、初めて知った。
「お兄ちゃん、どうして教えてくれなかったんだろ」
冬耶とは電話で会話したけれど、彼には珍しく、若葉の話は“もう気にしなくていい”の一点張りだった。若葉から借りたままというパーカーを返すのも、ネクタイを取り返すのも、全て冬耶に任せればいいとも言われた。
都古の身体を容赦なく蹴り上げ、葵の首を締めるような真似をした人。もう一度顔を合わせるのは怖い。冬耶の言うことを聞くべきなのだとも思う。けれど、胸に残る不思議な感情を確かめたくもあった。
“ほんと、猫みたいだネお前”
笑い声と共に与えられた言葉がぼんやりと蘇る。屋上で聞いたものとはまるで違う、柔らかい声。葵を抱き上げる腕も温かく、優しかった気がする。
どうして彼は葵を助けてくれたのだろう。葵が忘れていたことをあれほど怒っていた理由も知りたい。
「あいつ、気になる?」
「……うん。怒らせるようなことしちゃったなら、ちゃんと謝りたい。それに、みゃーちゃんに怪我させたことも謝ってほしい」
素直な気持ちを吐露すると、都古の目がスッと細められた。そしてしばらくの無言のあと、浴槽の縁に置いた葵の手を取り上げ、自分の胸元に導いてきた。
傷痕に触れるのを躊躇って離そうとしても、都古が力を緩めることはなかった。湯に浸かったせいか、それとも怪我のせいか。熱を持った肌に指先が触れる。
「次、これで、済まない」
若葉が言った通り、都古は攻撃を避けることは出来ずとも、最大限ダメージを和らげるための受け身はとったらしい。それでもこの怪我だ。彼が本気で仕掛けてきたらもっと恐ろしいことになるのは分かる。
それに息を切らしながら屋上に駆け込んできた奈央は、葵がネクタイを取られただけで済んだことを知って、その場でしゃがみ込むほど安心したようだった。葵が無事でいられたことが信じられない様子でもあったその態度は、若葉がいかに危険な人物かを如実に示していた。
ともだちにシェアしよう!

