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act.8月虹ワルツ<84>
葵はパジャマを、都古は浴衣を身につけ直し、濡れた髪を互いに乾かし合う。そのあいだずっと、このあと待ち構えていることばかりが葵の頭から離れないでいる。普段なら浴室を出てしばらくすれば引く火照りも、今夜は簡単には引きそうにない。
「アオ、ちょうだい」
身支度を整えるなり、都古は脱衣所の床に直接腰を下ろして手招いてくる。期待と熱の込もった視線。それを一身に受け止めながら、彼と向き合うような姿勢を取らされた。
この体勢自体は特別ではないはず。だから緊張するなんておかしいと自分に言い聞かせても、鼓動が速くなっていく。
都古はあくまでその後の流れは葵の意思に任せるつもりらしい。あの時のように、浴衣を肌蹴させるところから葵に委ねてくる。
「どこでもいいの?」
「うん。全部、でも」
都古のいう“全部”の範囲を確認するのが恐ろしくて、それ以上尋ねることはやめた。
浴衣の襟元に指を掛け、覗く白い肌に唇を近づけていく。ほんのりと漂う石鹸の香りすら今の葵には刺激になった。
前回のことを思い出しながら、ちゅっと音を立てて吸い付いてみる。すると頭上から吐息混じりの笑い声が聞こえてくる。視線をずらすと、都古が優しい目で葵を見下ろしていた。
「間違えてた?」
「ううん。くすぐったい」
もっと強くてもいいらしい。確かに都古の肌に浮かぶのはすぐに消えてしまいそうなほど淡い痕。葵にはまだ加減が難しい。
「アオ」
もう一度同じ場所に唇を寄せる葵の髪を撫でながら、都古が名前を呼んでくれる。恥ずかしくて堪らないけれど、この時間は嫌ではないと感じる。音が聞こえそうなほど心臓が脈打っているのに、むしろ心地いいとさえ思うのだ。
言葉だけでなく、好意を形にして伝える。それを受け止めて貰えることも、他では味わえない不思議な充足感を得られる。
自然と絡んだ指先から伝わる体温も、肌に浮かぶ“好きの印”が一つ増えるたびにお返しのように贈られるキスも、葵が抱える不安や戸惑い全てを溶かしてしまいそうなほど甘く温かい。
「みゃーちゃん、そろそろ終わりにしよ」
続けているうちに体の奥で段々とおかしな熱がくすぶり始めてきた。このままでは何のために提案したのか分からなくなってしまう。都古の胸元だけでなく、鎖骨や首筋にまで痕が浮かんでいる事実も、葵を現実に引き戻した。
「じゃあ、最後」
そう言って都古が指差したのは自身の唇。さっきまで都古からキスしてきたというのに、葵からさせて締めくくろうとするなんて、意地悪だと感じてしまう。
望み通りに唇を重ねると、待ち侘びていたかのように啄まれた。こんな風に求められることも、素直に嬉しいと感じる。
特別に好きな相手としかしないキス。それをこんなに沢山交わしているのだから、都古は葵の特別な相手。それでいいのだろうか。でも扉一枚隔てた向こうにいるはずの京介も同じ。今まで葵にキスを与えてくれた相手もそう。
七瀬は綾瀬ただ一人だけが特別だと言っていたのに、葵は異常なのだろうか。
「アオの、もの」
葵が付けた印は都古にとっては所有の証でもあるらしい。最後にとびきり長いキスを交わしたあと、都古は自分の体を見下ろして満足げに呟いた。意図したものとは少し違ったけれど、これで互いの気持ちが満たされるなら構わない。
だから、この痕が薄くなるたびに付け直してほしいという都古の願いにも、葵は頷いて答えた。
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