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act.8月虹ワルツ<87>

「部屋を移すことは元々考えてたし、そろそろかなって切り出したのは俺だけどな。強行することで生まれるメリットに目付けたのは遥。あぁ、分かってると思うけど、余計なことは言うなよ」 「はいはい、分かってます。んなことしたら、相良さんに殺されるやん」 「うん、来月帰国するらしいから気をつけて」 遥の帰国を待ち侘びる葵には申し訳ないが、出来ればその予定がなくなってほしいとさえ思う。 歓迎会での出来事や、そのあと葵から逃げ回っていた事実は当然遥の耳に入っているだろう。冬耶は特段幸樹を責めるようなことはしなかったが、遥は笑顔で刺してきそうな怖さがある。 「じゃ、引き続き色々とよろしくな」 車まで送るつもりでいた幸樹に、冬耶は寮のエントランスで別れを告げてきた。冬耶よりも、葵の大切なうさぎを部屋まで送り届けることを優先してほしいと言われれば従うほかない。 週末から葵の部屋になる場所。今はただの空き部屋という扱いで、役員ならば誰でも入室できるように設定されていた。 うさぎを寝かせるためのベッドやソファはもう運び込まれているのだろうか。それとも週末に葵の部屋から全て移すつもりなのか。疑問に思いながら扉を開けた幸樹は、すぐにその答えを目にする。 「藤沢ちゃん、泣いて喜びそうやな」 卒業した二人からの置き土産のようなその部屋を見てはしゃぐ姿が目に浮かぶ。それに、葵を可愛がる二人が引っ越しを強く勧めたもう一つの理由を見つけて、ようやく何もかも腑に落ちたような気がした。 二人に愛され、守られてきた葵。卒業しても彼らの存在の大きさに敵わないらしい。 彼らと張り合う気などなかったはずなのに、闘争心のようなものに火がつく感覚に襲われる。そこまで計算していて幸樹に打ち明けた気さえするのだから、本当に腹の立つ先輩たちだ。 そのおかげでうさぎをベッドに放り投げる手につい力がこもる。 「あぁ、あかん。殺される」 マットレスの上をバウンドして床に落ちたうさぎを慌てて拾いに行く自分の滑稽な姿に嫌気がさすけれど仕方ない。そして不恰好な姿で転がるうさぎの足の裏に書かれた文字を見つけて、ますます自己嫌悪に陥った。 “にしなあおい” 薄れて消えかけているけれど、確かにそう読める。この文字を誰が書いたのかは分からないが、大人の筆跡ではない。 葵の、そして西名家の願いとして刻んだのだろうか。 「……そっか。藤沢ちゃんて、呼ばんほうがええのかな」 葵が西名家の一員になることを望んでいるなら、幸樹が苗字で呼び続けるのは嫌がらせになるのかもしれない。でも幸樹の知る限り、葵の友人である綾瀬も苗字で呼び続けていたはず。 考えすぎだという可能性はあるが、呼び名に関しては過去に一度しくじった経験があるのだ。同じ過ちを繰り返すわけにはいかない。 幸樹は蘇る苦い記憶を封じ込めるように、うさぎを布団の奥深くへと押し隠した。

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