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act.8月虹ワルツ<88>

* * * * * * 昨日の昼食にも夕食にも現れなかった都古。若葉の手によって大怪我をさせられた話は聞いた。試験中とはいえ、もしかしたら休むかもしれない。そんな風にも言われていた。だから目の前の光景がいまいち理解しがたい。 「アオ」 隣にぴったりと座る主人に甘えた声を出す猫。怪我をしているのだから、食事を口元まで運んでもらうのも許さざるを得ないとも思う。だが問題なのは彼の首筋に浮かぶ赤い痕。どう見てもキスマークだ。 いつも少しだけ首元を緩めて制服を着こなしてはいるが、今日はシャツのボタンが多めに外されている気がする。隠すどころか、見せびらかしているようだ。彼が自慢するような仕草は、あの痕を刻んだ犯人が葵であることを示している。 「なんですか、あれ。心配して損したんですけど。ていうか、こんな時に一線越えたんですか?」 聖は耐えきれずに自分の横にいる京介に問い掛ける。すると、すでにさっさと朝食を食べ終えて携帯をいじっていた彼は、都古のことはおろか聖のほうすら見ずに舌打ちをかます。 「越えてるわけねぇだろ。つーか、突っ込むなよ。見えてないふりしとけ。あいつが調子乗るだけだから」 京介の口ぶりから、やはり相手が葵であることは確信できた。 にしてもあのウブで性知識もロクにない先輩にどうやってキスマークを付けさせたのか、単純に疑問である。 甘えて、ねだって、言いくるめたのだろうか。葵が恥ずかしがりながら肌に唇を寄せてくる光景を想像するだけで羨ましい。 「「いいなぁ、俺も欲しい」」 爽も同じ妄想を繰り広げたのか、羨ましがる声が重なる。 誕生日以来、葵とまともに触れ合えていない。あのあと葵の身に起きたことを考えて今までのように強引に迫るのを我慢していたが、葵はスキンシップを受け入れられる精神状態まで回復したのだろうか。 あの時のように泣かせたり意地悪をするつもりはないけれど、せめてキスぐらいはしたい。愛情を伝えるような優しいもの。そしてあわよくば、都古にしたように葵からも触れて欲しい。 「絶対させんなよ。つーか、そもそも触らせねぇからな」 「……顔に出てました?」 「すげぇ出てた」 聖の願望は分かりやすく表情に出てしまっていたらしい。京介からは釘を刺されるけれど、都古が葵といちゃついているならば、どうせ彼だってどこかでは手を出しているに違いない。 学年が違うと、こうして同じ時間に食事をとるのが精一杯。葵と同室で過ごす彼らにこの悔しさが理解できるだろうか。 「聖くん爽くん、またあとでね。三日目もがんばろうね」 都古に背後から抱きすくめられたまま、食事を終えた葵が笑顔を向けてくる。聖の悔しさを一番分かっていないのは、おそらくこの可愛い先輩に違いない。 やはり正攻法で戦うよりも、年下の特権をフル活用する手段を選んだほうがいい。 「がんばるから充電させて、先輩」 都古の存在を気にせずに葵に抱きつけば、一瞬驚いたように体を跳ねさせたけれど、すぐに華奢な指が髪を撫でてくれる。素直に頼ってくる後輩のことは手放しで甘やかしてくれるのだ。

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