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act.8月虹ワルツ<91>

* * * * * * 試験の三日目。今頃葵は懸命に問題に向き合っていることだろう。結果がなんであれ労うつもりだけれど、頑張りが報われてほしいと心から願っている。 携帯のディスプレイで時刻を確認した冬耶は、離れた場所にいる弟にそっと思いを馳せる。そして再び顔を上げ、目の前にそびえる巨大なビルへと視線を戻した。 宮岡を通じて穂高から連絡があったのは昨夜のこと。椿と接触できるよう、彼のおおよそのスケジュールを教えてくれたのだ。 元々穂高は椿と冬耶の接触に反対していたらしいけれど、海外行きの可能性が浮上して心境に変化が起こったらしい。 穂高の手を借りることで彼に迷惑が掛かることは気が引けたものの、今は葵の周りに起こるトラブルの芽を一つでも摘んでおきたい。だからこうして椿の登場を、少し離れた場所から待っていた。 聞いていた時刻から十五分ほど過ぎた頃、ようやく目的の人物が現れた。遠目でも分かるほど質の良いスーツを身に纏ってはいるが、赤みがかったブラウンの髪や、耳に煌めくいくつものピアスが、ビジネスマンだらけの空間で異様に目立つ。 しかしそれは冬耶も同じだ。耳どころか顔にまでピアスを付け、シルバーの髪色をしている冬耶には遠慮のない視線が寄せられる。植え込みから立ち上がると、身長の高さやガタイの良さでも目を引いたようだ。椿もこちらに気が付き、一瞬目を見開いたのち、あからさまに嫌な顔をしてみせた。 彼は無視をして方向転換するか悩む素振りを見せたものの、冬耶の元にやってきた。 「まさか、ずっと待ってたわけ?」 椿は穂高の協力があったとは思わず、単に冬耶が待ち伏せをしたと考えたようだ。ここは藤沢グループのオフィスビル。椿に会うため、彼が共に行動しがちな馨の拠点を張っていたと考えてもおかしくはない。 「ご連絡いただけなかったので」 椿の誤解を訂正するような馬鹿な真似はせず、冬耶はその話に乗った。アプローチをしても返答をもらえなかったのは事実。いつかはこうした強硬手段も取る必要があるとは元々考えていた。 「ちょっと早いですけど、ランチでもどうですか?」 「正気か?」 「立ち話でするような話題でもありませんから」 鬱陶しげな椿の態度には惑わされず、あくまで丁寧に接することを心がける。 目の前の彼が葵の兄。必死に平静を装ってはいるが、椿への感情は冬耶の心の中で混沌と渦巻いていた。 自分達家族を侮辱し、葵を傷つけたことに対する怒りだけでなく、弟と暮らすことだけを支えに生きて来たことへの同情とも憐れみともいえる思い。さらには、葵の兄の座を奪われるかもしれない恐怖も湧き上がっている。 けれど、彼もまた、冬耶には様々な思いを抱えていることだろう。表情を見れば分かる。

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