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act.8月虹ワルツ<92>
椿と連れ立って入ったカフェは、オフィス街の一角にあるにも関わらず観光目的と思しき姿の女性客が多い。その理由がこの店の看板メニューであるパンケーキであると、店内に入ってすぐに気がつく。
重厚感のある内装と、薄暗ささえ感じる照明を見て落ち着いた雰囲気だと判断したのだけれど、どうやら店選びを誤ったらしい。
「他の店にしますか?」
派手な身なりの男二人連れはこの店にそぐわず、かなり目立つ。それに椿は一般人とは思えぬほど整った顔立ちをしている。すでに店の入り口付近に座っていた女性グループが椿を見てざわつきだした。
だから気を使って提案したのだけれど、店を選び直すのも億劫だと言いたげに、彼は足早に店の奥の空席へと進んでいってしまった。
椿は女性向けのメニューの中で、唯一ボリュームのありそうなハンバーガーのセットを迷いなく選び、冬耶もそれに倣った。店員が去ると、否が応でも妙な沈黙がこの場を支配する。
でも会話を望んだのは冬耶だ。
「押しかけるような真似をしてすみません。ただ、一度きちんとお話したほうがいいと思ったので」
椿は西名家に対して大きな誤解を抱いている。葵を育てる対価として金を受け取っているという話もそうだが、葵を招いた目的がそれだと思っているのだ。葵本人にもそんな根も葉もない話を聞かせたとあっては、黙ってはいられない。
「今まで馨さんから送られてきた小切手を換金したことは、一度もありません。父は俺たち三人を自分の稼ぎだけで育ててくれています」
冬耶にとって陽平は良き父であり、最も尊敬している存在だ。葵を傷つけたことはもちろんだけれど、苦労する姿など一切見せずに家族を守り続ける陽平のことを侮辱されるのは許せなかった。
椿は冬耶の言葉に大きな反応を見せず、ただゆっくりとグラスに口を付け、窓の外に視線を移した。彼の返事を待つべきか、それとも更なる言葉を重ねるべきか。迷っているあいだにようやく椿が口を開いた。
「葵が連れて行かれたあと、施設の大人がアンタらのこと話してたのを聞いた」
西名家が葵を“引き取った”とは表現しないところに、椿があの日のことを恨めしく思っていることを如実に示している。
「いったい幾ら貰ったんだろうって、下世話な噂話。葵が金持ちの家の子だってのは元々知られてたから、いいネタだったんだろうな。俺には“優しい隣人”だって説明したくせにさ」
ただでさえ大事な弟を奪われたと感じていた椿にとっては、西名家を憎悪の対象とするには十分すぎる出来事だっただろう。
似たような噂は、近所に住む人たちからも散々もたらされたから今更驚くことはない。当時は陽平や紗耶香だけでなく、子供である冬耶や京介まで詮索の対象になった。嫌な思いをしたのは一度や二度の話ではない。
「金さえ手に入れられれば、用済み。葵もそうなるんだと思った」
その結果また施設に戻ってくるかもしれないと期待していたことも、椿は素直に口にする。その表情はどこか苦しげに見えた。“葵も”と表現したからには、椿自身に似たような経験があるのかもしれない。
「あーちゃんが、心配だったんですね」
冬耶がそう表現すると、椿は自嘲気味に笑っただけでそれ以上何も答えなかった。
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