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act.8月虹ワルツ<98>
「葵ちゃんも雨苦手じゃなかったっけ?よくお休みしてたよね」
「うん、でももう大丈夫」
「そう?」
濡れた手すりに頬杖を付いてこちらを見つめる七瀬の目は優しい。
確かに七瀬の言う通り、雨の日は外に出るのが怖かった。連れ出された先で置き去りにされた記憶が蘇ってくるせいで、家に閉じこもっていないと不安で押し潰されそうになるのだ。
ただ以前よりは感情の波がなだらかにはなった。時折吹く風に乗って雨粒が肌に当たっても、感傷的になり過ぎずにいられる。家族が根気良く寄り添ってくれたおかげだ。
「じゃあお喋りしよっか。ここなら京介っちにも都古くんにも聞こえないよ」
葵が何を悩んでいるか、七瀬にはお見通しのようだ。都古の自宅謹慎中、京介との触れ合いに困って相談した相手は七瀬。
「七ちゃんが前に言ってた“特別な好き”がやっぱり難しい」
「七みたいに一人に絞るのが?それとも、普通の好きとの区別?」
「それも分からない」
普通ならこんなことを悩まないのかもしれない。でも葵は答えへの糸口を掴めずにいた。少しでも理解の助けになればと周囲に尋ねてみたこともあるが、答えに近づいたようで、余計に戸惑うことが増えてしまった。
「七ちゃんは特別に好きな人、綾くんとしかキスしないって教えてくれたよね。だから奈央さんとお兄ちゃんに聞いてみたの」
「……ん?あぁ、もしかして葵ちゃんは二人とキスしたことないから?なるほどね。どんなこと聞いたの?」
奈央には誰かとキスしたことがあるのかを、そして冬耶には特別に好きな相手がいるのかを尋ねた。それを伝えると、七瀬は二人の回答を聞きたがった。
「奈央さんは誰ともしないんだって。お互い特別に好きって思う気持ちが大事だから。それはね、なんとなく分かる気もした」
「ふーん、高山さんらしい感じだね。で、お兄さんのほうは?」
「家族とか遥さんとか、特別に好きな人はいっぱい居るって」
「はぐらかしたか。いや、お兄さんに限っては天然で言ってそうな気もするな」
二人それぞれの答えは、七瀬の想定から大きく外れてはいなかったようだ。納得したような顔で頷く七瀬に、葵は抱えている迷いを口にする。
「お兄ちゃんみたいに、特別に好きな人はいっぱい、じゃダメなの?」
「うーん、ややこしくなっちゃったか。七はお兄さんにもちゃんと特別な人がいると思うけどな。葵ちゃんはそれが誰か、全然見当つかない?お兄さんが一番大切にしてる人」
「一番?」
冬耶は周りの人全てに分け隔てなく優しい。面倒見もよく、皆の兄という印象も強い。その彼が一番に大切にしている存在。
「遥さんか京ちゃんかな?」
「……それだけ?」
七瀬は他の答えを確信しているようだけれど、葵は二人以上に冬耶と距離の近い存在が分からない。
遥以上に親しかった同級生は居ないだろうし、大学で新しくできた友人だろうか。でもそれなら七瀬が把握しているのはおかしい気がする。
「ウブだっていうより葵ちゃんの自己肯定感の問題なのかなぁ、これって。だとしたら、大分根深いよね」
「どういうこと?」
「んーん、こっちの話。葵ちゃんに大好きって伝えるために、七も頑張らなきゃって思ったの」
話の流れがさっぱり分からないけれど、力一杯抱き付いてきた七瀬を両手でしっかりと受け止める。葵より少しだけ小さな体。いつもは葵が体を包み込まれる側だから、こんな立場になれるのは七瀬が相手の時だけ。
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