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act.8月虹ワルツ<101>
「葵ちゃん、行くよ」
「え、あ、待って」
七瀬は戸惑う葵の腕を問答無用で引っ張り、元いた部屋へと慌てて押し込んできた。冬耶からの言いつけを破るつもりはなかったけれど、あからさまに無視をする態度は失礼極まりない。また彼を怒らせることにならないか、それが心配だった。
「やばい、九夜さんに見つかった」
葵を京介たちのいるリビングへと誘導するなり、七瀬は先ほどの出来事をそう表現した。葵は若葉から隠れているつもりはない。寮であんな風に遭遇することも、おかしな話ではないだろう。だからあれの何が問題だったのか分からなかったが、七瀬の言葉で京介たちの顔色が変わった。
「は?あいつどこにいた?」
「裏庭。こっちの様子観察してたのかも」
若葉が距離の離れた場所にいたと知って、心なしか京介に安堵の色が浮かぶけれど、ひそめられた眉から険しい色は拭えない。
「葵」
呼ばれるままソファに座る京介の元へと素直に向かうと、すぐにきつく抱きすくめられる。七瀬たちが居る前でこんな風に抱きしめてくるなんて珍しい。嬉しくて葵からも腕を絡めれば、より一層強く包まれる。
「……やっぱり九夜さん、僕に怒ってるんだよね?お兄ちゃんに任せる、で合ってるのかな」
彼からの報復を恐れ続けるより、怒りの対象である葵が直接会話をしたほうが話が早くまとまるのではないか。対峙することへの恐怖がないとはいわないが、葵の中に残る記憶が彼を悪人だと判断しきれずにいる。葵が謝れば許してくれる。そんな考えは甘いのだろうか。
「若葉見つけたらとにかく逃げろ。んで俺に連絡。分かった?」
「でも」
「でもじゃねぇよ。お前が何考えてんのかは大体想像つくけど、話通じる相手じゃねぇからな?」
言葉を交わす隙も与えず都古を蹴り飛ばしたことを考えれば、きっと京介の言い分は正しい。素直に頷くべきなのだとは思う。でも誰かが自分の身代わりになるようなことはどうしても嫌だった。都古だけでなく、葵の代理人として若葉と会話するつもりの冬耶の身にも何かが起こったら、後悔するどころでは済まない。
「藤沢、俺も西名の言う通りだと思うよ」
沈黙を貫いていた綾瀬まで葵の考えが間違っていると伝えてくる。
「七瀬、悪いけどこいつから目離さないでおいて。この調子じゃ危ねぇわ。都古も怪我してるし」
「うん、分かってる」
埒が明かないと判断されたのか、京介は葵の相手をするのをやめて七瀬と会話を始めてしまった。クラスでの様子まで心配されているらしい。
「京ちゃん、大丈夫だから……」
「もうお前のこと探し回んのも、ボロボロになったお前見んのも嫌なんだよ」
心配しないでほしいと言いかけた言葉は、京介の悲痛な訴えに遮られた。葵に何かあるたび彼は怒りを露わにするし、厳しく叱ってもくる。でもこんな声音で縋られると、怒られるのとはまた違う痛みが胸に生まれる。
「葵?」
確かめるように名を呼ばれ、葵は頷きを返すしか出来なかった。
密着した体から伝わる体温はいつも通り優しい。こうして彼の優しさに包まれて守られているだけの自分も、幼い頃からちっとも変わっていない。それが無性に情けなくなって体を離そうと試みたけれど、京介はそれを許してはくれなかった。
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