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act.8月虹ワルツ<108>
リビングには夕方まで七瀬と綾瀬が居た痕跡が残っている。二人は若葉の接触と、都古の首に浮かんだ痕、その二つを気にしてわざわざやってきてくれたようだった。
葵が七瀬と話しているあいだ、京介は綾瀬からいつも通り嗜められていた。葵と部屋が分かれる前に素直な気持ちを伝えたほうがいい、と。それに綾瀬は葵が引っ越したあと、京介が都古と二人部屋でうまくやれるのかも気にしていた。
今は都古と揉めるよりも手を組むべきだという綾瀬の意見は理解できる。個人で葵を取り合う以前に、まずは馨や若葉といった外敵に目を向けるべきだというのは至極真っ当な意見だ。だが、いざ実践しようとするとどうしても難しい。
静かな雨を降らせ続ける空には月も星も見えず、ただ暗闇が広がっている。葵と約束した明後日も、予報では今のところ雨マークが付いていた。映画がメインの予定とはいえ、どうせなら晴れた日に連れ出してやりたい。
溜め息と共に煙を吐き出すと、背後でゆっくりとドアノブが回る音がした。フローリングをぺたぺたと素足で歩く足音の主が誰かなんて、振り向かなくても分かる。
「寝ろって言わなかった?」
「……うん」
ベランダを向いて座る京介の横に並んできたのはもちろん葵だった。
「ったく、体冷やすぞ」
「じゃあ抱っこして」
了承する前に、葵はあぐらをかいた京介の足の上に移動してくる。こんな体勢は二人の中では慣れきったもので、京介も拒むどころかついいつものように抱き寄せてしまうのだ。
「お前さ、さっき俺に何されたか分かってんの?」
安心しきった様子で京介の腕に己の手を重ねる葵に文句を言いたくもなる。せっかく自制して距離を置いたというのに、これでは台無しだ。
「京ちゃんに好きって、伝えにきたの」
葵はそう言って京介の手を取り、そのまま己の唇へと迷いなく寄せる。甲にチリっとした痛みが走ったことで、葵が何をしたのかはすぐに分かった。都古の体にも与えた好意の印を、京介にも授けにやってきたようだ。
「うまく付かないや」
色白の都古の肌とは違い、それなりに日に焼けている京介の肌では痕が目立ちにくいのは否めない。それに葵はまだ力加減もロクに分かってはいないのだろう。ほんのりとしか認識できない痕を見下ろして残念そうな顔をする葵に、せっかく落ち着かせた情欲が簡単に湧き上がりそうになる。
「妙なこと覚えやがって。葵、それ禁止な」
「なんで?京ちゃんは付けてくれたのに、お返しはダメなの?」
今まで京介が一方的に触れるばかりで、葵に行動させることなんて思いつきもしなかった。だから葵からこんな質問をされる想定も当然出来ていない。
「葵の“好き”じゃ、この印付けるのには足りねぇから」
「いっぱい好きだよ?」
「そういうことじゃねぇよ」
京介を降り仰ぐ葵の表情はどこか寂しげだった。正確に理解出来ていないにしろ、葵は周囲の愛情を受け止めようとしている。葵なりに愛情表現を真似て、返そうとしているのだとも思う。
「特別な好きじゃないとダメってこと?」
「そう」
「でも京ちゃんは……あれ、じゃあ、京ちゃんの特別って……」
葵はそこまで言いかけて口を噤んだ。何が言いたかったなんて予測は簡単につく。単純な方程式だ。
「そうだよ、葵」
小さな体を抱きすくめ、言葉にならなかった葵の問いに答えてやる。葵がどこまで理解したかは分からないが、少なくとも今までの関係と比べれば進んだと表現してもいいだろう。
その証拠に、金糸から覗く耳がほんのりと赤くなっていた。無邪気に好きだと言い返してくるよりも、恥じらう仕草が京介を喜ばせる。
葵を抱きしめるには片手では物足りない。吸いかけの煙草をベランダのコンクリートに押し付けると、今度は両手でしっかりと抱き直す。
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