1212 / 1603

act.8月虹ワルツ<110>

* * * * * * 都古を眠りから覚まさせたのは、胸に走る鈍い痛みだった。どうやら都古の胸に預けさせていた葵の頭がヒビの入った部位にぶつかったらしい。普段ならなんてことのない振動も、薬が切れた体には痛みを感じさせる。 カーテンの外はまだ薄暗いけれど、最近雨が続くせいで時計なしでは正確な時刻が分かりづらい。もしかしたらもうアラームが鳴るような時間なのかもしれない。その予測を裏付けるように、葵を挟んで共に眠っていたはずの京介の姿が見えなかった。彼は夜更かしをするわりに、三人のなかで一番に起きることが多い。 「起きる?」 もぞもぞと動いてはいるものの、葵は起き上がる気配を見せない。だから都古は腕の中の体を引き寄せ尋ねてみる。だが、思ったような反応は返ってこなかった。 いつもなら都古のほうを向いておはようと笑ってくれるはずだ。それが無いということは、彼はまだ眠っているらしい。 それなら絶えず身じろぎをしている理由は何か。また悪夢に襲われていると考えるのが自然だが、上体を起こして覗き見た葵の表情は怯えたり苦しんだりしているものではなかった。 ほんのりと上気させた頬と、物欲しげに開いた唇。普段の幼さとは違い、艶を感じさせる寝顔で夢の類を知る。 「そっち、ね」 どの程度かは知る由もないが、昨夜京介が葵の体に触れたことは分かっている。その続きを夢に見ているのか。それとももっと別の記憶を思い返しているのか。なんにせよ、体を淫らに高ぶらせるような物語にいることは間違いない。 都古がこんな光景に出くわすのは初めてではなかった。自慰の知識も経験もない葵は、当然生理現象の対処法も知らない。だから葵の代わりに、タイミングを見計らってこっそりと奉仕してきたことも一度や二度の話ではない。 都古自身の欲望をぶつけるわけではない。葵の体を癒すために触れるだけ。だからその行為自体への罪悪感は薄かったけれど、一ノ瀬の件があってからは違う。葵の意思を確かめられない限り、勝手に触れるつもりはなかった。 けれど、いざ色っぽい表情を目の当たりにすると決心は揺らぐ。 毎日一緒に湯船に浸かっても都古からはキス以上を仕掛けていない。でもそれは葵を安心させたかっただけで、都古側はずっと我慢している状態。 それにこのまま放置しても葵を苦しませるだけだ。 「起きたら、やめる」 葵は都古の言い訳などちっとも聞こえていないだろうが、一応はそんなことを囁いてみる。表情の変化に気が付きやすいように正面から抱き直すと、葵からも都古の温もりを求めるように擦り寄ってきた。その行動が都古の迷いを溶かしていく。 パジャマの裾を捲り、初めに触れたのは腰。都古の手を冷たく感じたのか一瞬寝息が止まったけれど、起きる気配はない。そのまま己の体温が葵の肌に馴染むまで動かすことはせずにジッと耐える。そうして葵の呼吸が元のリズムに戻るのを待ってようやく、都古は素肌をなぞり始めた。 背骨が浮くほど薄い皮膚。けれど不思議と柔らかく感じるのは、滑らかな肌質によるものだろう。 一ノ瀬がその綺麗な肌に噛みつき、吸い上げた痕は随分薄れてくれた。けれど、まだ完全には消えていない。今触れている背中や腰に限らず、胸や腹、太もも、それに都古がこれから癒そうとしている箇所にもあの男の痕は残っている。 十日経ってもこれだ。どれほど強い力で触れられたのか。葵の感じた痛みや恐怖を想像するだけで息苦しくなる。

ともだちにシェアしよう!