1214 / 1603
act.8月虹ワルツ<112>
再び穏やかな眠りにつく葵を眺めていると、どうしても複雑な気持ちになるのを否めない。
途中で起きてしまうこともなくはないけれど、大抵は今回のように目覚めることのないまま達してしまう。その特性を利用してきたくせにとは思うが、主人を守りたいと願う猫としては不安になる無防備さだ。
片時も離れず、何からでも守るつもりではいる。葵がこれから移ることになる生徒会のフロアには堂々と出入り出来ないけれど、それはあの若葉という男も同じ。この部屋よりも強固なセキュリティで葵が守られるのなら、それはそれで構わない。
ただ葵が都古以外の誰かを添い寝の相手に選ぶことは避けたい。こんな風に眠りの中で体を火照らせるような事態に陥った場合、誰もがまず間違いなく手を出すに決まっている。いや、そもそも同じベッドに入った時点で葵が安全ではなくなる。
都古は一方的な行為の代償を嫌というほど知っているし、尽くすことで十分満足は出来る。だから葵の体を癒すだけで止めてやれるが、普通はそれ以上を求めたくなるに違いない。
現に京介は一ノ瀬の一件で歯止めがきくどころか、早く葵を抱きたいという願望を隠しきれなくなっている。都古が葵の引っ越しを止めない理由の一つは、今の京介とは引き離したほうがいいと思ったからだ。
それに葵が三人での関係を維持しようとするせいで、都古まで京介の欲に引きずられそうになる。一ノ瀬の記憶を塗り替えてやるという名目で葵に触れたあの夜のようなことが再び起きてしまえば、二人掛かりで競うように葵を抱く展開だって有り得てしまう。それが怖かった。
でも結局は生徒会フロアに移っても同じ。外部からの危険は阻止できても、役員に食べられる可能性は増えてしまう。
どうしたら葵を守れるのだろうか。常に抱える悩みには、傍にいる以外の答えが見つからない。
気を抜くとすぐに恐ろしい記憶が溢れてくる。溺れて真っ青になった葵の姿。一ノ瀬が葵を捕らえていた倉庫。葵の身体中に浮かんだ傷跡。そこに若葉が葵の首を締め上げている光景まで加わった。
あんな目に遭わせたくなくて傍に居たというのに。何の役にも立たなかった。そんな感情が溢れて泣きたくなる。
苦しくなる呼吸を落ち着けるため、都古は葵に寄り添うように目を瞑る。揃いのシャンプーの香りも、耳を擽る柔らかな寝息も、じんわりと伝わる体温も。その全てが都古を癒してくれる。
この時間が永遠に続けばいいのに。
都古のそんなささやかな願いは、数分も経たずにあっさりと破られた。葵がセットしていたであろう携帯のアラームが鳴り始めたのだ。
その電子音を嫌がるように、葵は首を振って布団の中へと深く潜り込んでしまう。いつも都古より葵のほうが先に起きてしまうから、こんな仕草を見られることは珍しい。
「アオ、起きて」
「……ん?みゃ、ちゃん?」
自分を起こす声の主が都古と分かるなり、葵はすぐに布団から顔を覗かせた。少し前までの色っぽい表情はもうすっかり取り払われ、いつも通りの葵に戻っている。
「どうしたの?怪我したところ、痛む?薬切れちゃった?」
都古が先に起きた理由を推測して慌てる葵には申し訳ないが、彼の愛情を実感できてつい笑みが溢れてしまう。
「大丈夫。ご褒美、あったから」
「ご褒美?」
都古がいつもねだるご褒美の正体を葵は理解している。だが与えた自覚がないのだから訝しむのも無理はない。
「また、頂戴」
不思議そうな顔をする葵の頬に口付けながら甘えてみると、彼は自分が無自覚に与えたご褒美がこんな子供騙しのキスだと思ったのだろう。都古が欲しかった笑顔で頷いてくれる。
こんな風に手放しで信頼し、甘やかす対象が都古だけであったらいいのだけれど。拭いれない不安を隠し、都古はもう一度大切な主人にキスを贈った。
ともだちにシェアしよう!