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act.8月虹ワルツ<113>

* * * * * * 予定の時刻になっても主人が起きてこない。そんな時、困った使用人が頼るのはいつも穂高だった。主人が眠る室内に許可なく入ることも、ましてや起こすことなど恐ろしくて出来ないのだという。その懇願を受けて立ち上がるのも、穂高にとっては日常だった。 「馨様」 彼は“社長”という新しい呼称を気に入ってはいないらしい。仕事の場以外では名前で呼ばれたがる。だから扉越しにそう呼びかけてはみるが、どうせ聞こえていないだろう。穂高は数度のノックのあと、真鍮のドアノブに手を掛けた。 いつからか、馨は身の回りを白一色で固めるようになった。だから彼の寝室も病的なほど真白い空間。 穢れのない色を好む延長が葵への偏った愛情なのか。それとも葵を愛する余りに、白を求めたくなったのか。そのどちらかは分からないが、いずれにせよこの室内だけで馨の異常性は十分感じられる。 穂高はまず陽の光を遮るブラインドを開ける作業から始める。自然光は朝に弱い馨を目覚めさせるのに役立つからだ。だが、生憎天気は雨。室内は多少明るくなるものの、眠りから覚まさせるほどの効力はない。 仕方なく穂高はベッドサイドまで歩み寄った。三人は優に寝られそうなほど大きなベッドの真ん中で、馨は静かに眠り続けている。艶のある黒髪と、赤みの強い唇が白い空間で異彩を放つ。精巧な作り物のように見えるほど美しい寝顔。 「馨様、おはようございます」 少し大きめの声を掛けると、馨は不快そうに眉をひそめた。その反応に穂高は安堵する。 彼の眠りは常に浅瀬を揺蕩うもの。自力では深く眠ることが出来ないせいで、時折薬の力に頼ることがあった。その場合の対処法は少々厄介なのだけれど、この様子ではすぐに目覚めてくれるだろう。 その予測通り、窓を開け放したり、彼が好むお香に火を付けたりと周囲で動き続ければ、ほどなくしてベッドの上の塊が動き出した。 「夜がもう少し長ければいいのに」 寝起きはいつもよりゆったりとした口調になる。開口一番、朝が訪れるタイミングへの不満を漏らす感覚は自分本位な馨らしい。 「穂高は私よりも遅い時間まで起きているのに、どうして早く起きられるの?もしかして寝てないの?」 ベッドから抜け出た馨は窓辺に佇む穂高に視線を合わせ、無邪気な質問を投げかけてきた。ちっとも老けない容姿もあいまって、まるで幼い子供のような言動に感じられる。 貴方に振り回されているせいだ。望んでこんな生活をしているわけではない。 そんな本音がつい溢れてしまいそうになるけれど、穂高が感情的になることを馨は期待している節がある。だから冷静にあしらうことが最善。 だが馨は穂高の型通りの反応にも楽しげに笑ってシャワールームへと消えてしまった。どう抗っても、彼と穂高の序列は絶対的なものなのだとこんな時思い知る。 急ぐことを知らない馨の身支度にはそれなりの時間が掛かる。一つ目の予定の調整を覚悟しながら部屋を出ると、廊下には馨の身近な世話役として雇ったはずの青年が待機していた。 「馨様を起こすぐらいの仕事は覚えてほしい」 気難しい馨が新人の彼にはちっとも興味を示さず、傍にも置きたがらない現状は理解している。怯える気持ちも分からないでもないが、これでは彼の存在意義は皆無に等しい。 青ざめた顔で深々と頭を下げる彼が、そう遠くない未来、今までの使用人と同じく首を切られるのだと思うと、それ以上責める気にはなれなかった。

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