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act.8月虹ワルツ<114>
馨はマイペースにシャワーを浴び、優雅に朝食を楽しんでから迎えの車の元へと姿を現した。彼の気質を踏まえて余裕を持ったスケジュールを組んではいるが、本人が全く協力的でない以上、限度がある。
「今日は穂高と二人がいい」
おまけにドアを開けて待ち構える運転手にこんなことを言い放つ始末。暗に立ち去れと指示された運転手は遠慮がちに穂高へと視線を向けてくるが、頷く以外の選択肢はない。
運転手と立ち位置を交代すれば、馨は満足げに後部座席に滑り込む。これで溜まった仕事を移動中に少しでも消化したかった穂高の思惑は崩れ去った。
「雨が続くね。もう梅雨入り?」
車を発信させてしばらくは静かにタブレットをいじっていた馨が不意に話しかけてくる。バックミラーを覗き見ると、彼は窓の外に視線をやっていた。
「梅雨入りはしていないそうです。平年通り、六月に入ってからの見込みだと聞きました」
「そう、まだなんだ。こんなに降っているのにね」
前にも馨は梅雨の定義に苦言を呈したことがあった。彼のために説明をしてやった気はするのだけれど、忘れてしまったのか。それとも納得がいかないままなのか。
「予報では、昼から晴れるそうですよ」
「……そういえば、しばらく虹を見ていないな。今日は出るかな」
美しい景色を期待するような声音。もし彼の望む通りに虹が出たとしても、彼にはそれを眺めるチャンスはないはずだ。今日の馨は一日中、本社で会議や来客の対応に追われる予定。
でも“虹が見たい”なんて理由でふらりとオフィスを抜け出すぐらいの身勝手さが簡単に想像出来しまうから恐ろしい。
「葵が初めて虹を見た時のこと、覚えてる?」
穂高がこれからのことを思い描いたのとは反対に、馨は過去の出来事を思い出したようだ。
きっかけは馨が撮影した写真に写っていた虹に葵が興味を示したことだった。その反応を見て、馨は“虹を見せてあげる”と約束をしてやっていた。
自然発生する虹を見せるのは難しいが、太陽光と霧吹きさえあれば人工的に虹を生み出すことは出来る。馨に命じられて庭に虹を描く役目を担ったのは穂高。
小さな虹だったけれど、葵は目を丸くして驚いてくれた。
「虹を掴みたがって、何度も手を伸ばしてた。可愛かったね」
その日の馨は珍しく、葵のそんな子供らしい行動を咎めることはしなかった。いつもは人形らしく、馨の腕の中におさまることを望むのに。
だから穂高も葵の行動を嗜めることはなく、求められるままに何度も虹を描いてやったのだ。
「ねぇ穂高。あんな風にまた三人で過ごせたら楽しいと思わない?」
あの瞬間を切り取って判断するならば、馨の言う通りかもしれない。
「私はただあの幸せな時間の続きを願っているだけだよ」
反対するほうが悪者だと言いたげに馨は言葉を重ねた。でも彼の望みはそんな綺麗なものではない。葵に抱く感情の正体も、父親にはあるまじきおぞましいものだと知っている。
立場上馨の行動や思想を真っ向から反対することは出来ないが、その場しのぎであっても彼を支持するような台詞を吐きたくはない。何も答えない穂高に気を悪くするどころか、馨は楽しげに笑って再び視線を窓の外に戻した。
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