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act.8月虹ワルツ<115>
いざ仕事となると、馨は皆が求める社長を演じてはくれる。オフィスに到着するなり、馨はそれまでとはまるで違う空気を纏い、颯爽と車を降りていく。
身内には欲望に忠実な狂人の顔を惜しみなく曝け出すというのに、その気になれば上手に隠せてしまう。そこが彼の厄介なところ。
社内では穂高が馨にべったりと張り付いていなくとも、予定に合わせてそれぞれに適した社員が付き添ってくれる。だから穂高は駐車場に車を停めてから、自身のデスクがある秘書室へと向かおうとした。
だが、穂高よりも先にエレベーターを待っていた人物がそれを引き止めてきた。
「ちょうど良かった、少しいいか」
出会いは偶然だったが、相手はどこかで穂高と会話したいと考えていたようだ。穂高が頷けば、彼は到着したエレベーターへと無言で乗り込んだ。
上層階へと向かう箱の中でも、無駄な会話は交わされない。背を向け、階数を示す電光表示をジッと見上げているのは穂高の父、忠司。
会長である柾に仕えている彼はあまりにも多忙で、親子としての交流の記憶はほとんどない。それに、穂高は葵が生まれたのを機に家を出て、馨と共に暮らすことになった。
特別不仲というわけではないが、気軽に雑談を楽しむような間柄でもない。帰国してからはこうして顔を合わせる機会が増えたものの、こんな風に誘いを受けることは初めてだ。
連れて行かれたのは会長室のあるフロアの一角。普段忠司が業務をこなすために使っている個室のようだった。促されるまま黒革のシンプルな応接セットに腰掛ける。
「椿様の留学の話、どう考えている?」
向かいに座った忠司は、前置きもなくすぐに本題に入った。内密にされている話も、柾の側近である彼なら把握していてもおかしくない。むしろ留学先候補の資料を集めたのは忠司である可能性が高かった。
「どう、とは?」
「同行に前向きではないと聞いた。もしもお前が望むなら、椿様には誰か他の人を付けるよう進言することは出来る」
彼の言う通り、信頼する側近の言葉なら、柾も柔軟に耳を傾けるとは思う。だが忠司は本当の意味で穂高の意向を理解はしていない。
「お坊ちゃまの担当に戻りたいんだろう?」
葵を藤沢家に呼び戻す前提の口ぶりには違和感を覚えた。それに、葵の傍に居たいなんて自分本位な願いを抱えていると思われるのは不愉快だ。
「旦那様はお坊ちゃまの成長を大変喜んでいらっしゃる。お前が付いて差し上げれば、きっと立派な後継になられるだろう」
「……椿様の留学は、後継としての力量をはかるためのものでは?」
まるで初めから椿を候補として考えていない物言い。指摘すると、忠司は気まずそうに顔をしかめた。柾は椿が育つ可能性を探りたいようだが、忠司はその考えに賛同しているわけではないらしい。
伝統や血筋、規則、世間体。そういったものを重んじる忠司にとって、椿の存在は受け入れがたいものなのだろう。
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