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act.8月虹ワルツ<116>

「馨様が日本に戻っていらっしゃるのには十年掛かった。椿様はもっと時間が掛かるかもしれない。お坊ちゃまがこのまま順当に進学、入社なさったほうが早い。そう思っただけだ」 息子相手に気が緩んだのだろう。忠司は己の失言を取り繕ったけれど、大したフォローになっていない。勝手に葵の将来を決め付けるところも穂高の気分を害した。 「私の望みはお坊ちゃまの幸せ、ただそれだけです」 「……まさか、あの家で暮らし続けることが幸せだと?」 忠司は信じられないという顔で尋ねてくるが、穂高も彼が理解出来ない。なぜこの家に迎えることが葵の幸せだと思うのか。 「お坊ちゃまのこれからを考えたら、出来るだけ早く西名の人間とは縁を切らせたほうがいい」 「どういう意味ですか?」 忠司は椿のように西名家の愛情を誤解しているわけでも、私怨を募らせているわけでもないはず。葵を大事に育ててくれていることを感謝こそすれ、蔑むような謂れはないはずだ。 「両親はともかく、あの兄弟の素行は目に余る。お坊ちゃまに悪影響を与えかねない」 忠司はそう言いながら、一旦席を立ってデスクからファイルを一冊取って戻ってきた。差し出されたファイルの中身は、葵の周囲にいる人間の素行調査の結果だった。 冬耶や京介のことだけではない。そこには宮岡がカウンセリングで聞き出した葵の好きな人たちの名前が並んでいた。いつから調べていたのだろう。葵の動向を見守るぐらいは止むを得ないと思うが、これはさすがに度を越している。 それぞれの名前の上に付けられた印が穂高の苛立ちを更に煽った。西名家の兄弟は斜線で消され、北条家や月島家の子息にはチェックが付けられている。藤沢家へのメリットをはかった痕跡なのだろう。 「お坊ちゃまにまた家族を失う経験をさせたいんですか?せっかく築いた交友関係を壊せと?」 柾や忠司の思い描く未来はあまりにも自分勝手で惨いものだ。冷静を装おうとしても、声が震えるのを止められなかった。こんな横暴が許されるわけがない。葵の人生を何だと思っているのだろう。 「お坊ちゃまの為だ」 エゴだと認めてくれればまだ耐えられたかもしれない。だが、この言い分には一瞬視界が白むほどに怒りを覚える。 「きちんと説明して差し上げれば、お坊ちゃまも理解して下さるはずだ」 「その役目を私に負えということですね」 生まれた時から傍に居たのだ。当時は誰よりも葵に懐かれていた自負はある。忠司も同じ認識でいるのだろう。だから穂高を利用すれば、葵を手懐けられるとでも安易に考えているようだ。 ここまで会話が出来ない相手だとは思わなかった。ただここで忠司に怒りをぶち撒けたところで、良い方向には進まない。穂高は一つ深い呼吸をして気を鎮めた後、静かに立ち上がることを選んだ。

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