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act.8月虹ワルツ<117>
「馨様も、今はああしてご立派になられているんだ。柾様のお気持ちは必ず伝わる」
挨拶もなしに扉に向かう穂高に対し、忠司は駄目押しのようにそんな言葉を投げかけてきた。
馨からも大切なものを幾つも取り上げてきたのだと察する。元から狂人だったわけではなく、柾や周りの環境が馨を壊したと言えるのかもしれない。葵への異常な執着も、柾からの抑圧が生んだ産物なのだろうか。
穂高はテリトリーである秘書室に戻っても、しばらく仕事に手を付ける心境にはなれなかった。パソコンを開くこともせずただ椅子に背を預けて目を瞑る穂高を気遣って、部下たちがコーヒーやキャンディを机に並べてくれるが、それに応える気力も起きない。
「……穂高が居眠りなんて、珍しいね」
不意に聞き慣れた甘い声が耳をくすぐるのに気が付き、穂高は慌てて瞼を開く。全く自覚はなかったが、あれから随分な時間が経過していたらしい。体感では一瞬の出来事だというのに、楽しげに笑う馨の姿で己の失態を知る。
「失礼いたしました」
「構わないよ。むしろ穂高も居眠りをする人間なんだって安心したぐらいだ」
すぐに立ち上がって頭を下げた穂高を、馨は本当に嬉しそうに見つめてくる。朝一番に投げかけてきた疑問に彼なりの答えが見つかって満足しているようにも見えた。
「でも、疲れている穂高に残念なお知らせをしなくちゃいけないのは気が引けるな」
「残念な知らせ、ですか」
忠司と交わした会話が尾を引いているせいで、その類の話が嫌でも思い浮かんでしまう。でも身構える穂高をよそに、馨が伝えてきたのは些細な雑学だった。
「虹は太陽が高い位置にあると見えないんだって。だから昼間雨が上がっても、虹が出る可能性はないみたい」
誰かに教えてもらったのだろう。馨は悲しそうに告げてくるけれど、大きく肩透かしを食らった気分だった。
「朝は起きられる自信がないから、夕方に賭けるしかないかな。また天気予報を教えてね」
本当にただそれを伝えたかっただけらしい。戯れるように穂高の髪をくしゃりと撫でて、馨は立ち去ってしまった。穂高は馨の姿が完全に消えるのを待って、けだるい体を再び椅子に凭れかける。
葵の年齢と同じだけの時を馨と過ごしている。穂高の人生の半分を優に超える長い時間だ。それでも彼を理解出来そうにない。
目を瞑ると蘇るのは虹を見て笑う葵を、優しく見守る馨の横顔。あの時の二人は誰が見ても幸せな親子だった。どうしてこうなってしまったのだろう。ずっと傍にいた穂高なら、何かを変えることが出来たのだろうか。
もう後戻り出来ない穏やかな時間を思い起こしながら、穂高は再び束の間の微睡みに身を委ねた。
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