1221 / 1602
act.8月虹ワルツ<119>
「奈央さんの部屋の隣、なんですね」
「あぁ。開けてごらん」
役員だけが持つカードキーには、すでに葵の部屋の鍵情報が登録されているらしい。促されて扉の前に立つと、なぜか懐かしい気持ちが胸に広がっていく。
二ヶ月前まで誰がこの部屋を使っていたのか。その答えに行き着いて、自然と目頭が熱くなる。
大好きな人の部屋を受け継ぐ嬉しさはあるけれど、まっさらになった室内と対峙する勇気が湧かない。この部屋で重ねた思い出が全部消えてしまうような、彼が傍に居ないことを思い知らされるような、そんな感覚に襲われそうだからだ。
「どうした、葵?」
扉の前で固まる葵を訝しむ声がする。このまま開けないわけにはいかない。震える手でカードをリーダーにかざすと、ピッという無機質な電子音が廊下に鳴り響く。
葵は数度深く呼吸を繰り返したあと、ドアノブに手を掛けた。少し重さを感じる扉は、軋んだ音を立てて開かれる。癖のあるこの音もまた、葵にとっては懐かしさを覚えるものだった。
換気のために事前に開かれていたのか、窓から柔らかな風が吹き込んできた。裾を翻して揺れるレースカーテンは、晴れた日の空の色をしている。その色にも既視感があった。
「……ッ、これ」
「“贈り物”だそうだ」
部屋に一歩足を踏み入れたところでそれ以上進めなくなる葵を、忍は背後からそっと抱き締めてくれた。
「遥さんの、部屋だ」
「片付けるのが面倒だっただけかもしれないがな」
忍はそんな風に笑うけれど、これは間違いなく遥の優しさだと感じた。
ソファもテーブルもカーテンも、在学中に彼がこの部屋で利用していたものばかり。それだけで遥と過ごした時間が鮮明に蘇ってくる。
この部屋には試験前だけでなく、勉強を教わるという名目でしょっちゅう遊びに来ていた。生徒会に入ったばかりの頃は仕事に慣れない葵を気遣って、活動終了後もこの部屋で葵に任された業務を手伝ってもくれた。
遥は時折厳しいことも言うけれど、葵が頑張ればその分とびきり甘やかしてもくれた。この部屋で何度抱き締められ、あやされたか分からない。
ここに居るだけであの日々に戻れたような感覚がする。遥だけが足りない空間に寂しさを感じないわけではないが、彼との思い出が葵の心の隙間を埋めてくれる。
「寝室も確認してみたらどうだ?」
忍はそう言って葵を誘導するが、あくまで自分の足で進ませるつもりらしい。そっと背中を押され、葵は部屋の奥へと歩き出した。
ともだちにシェアしよう!