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act.8月虹ワルツ<120>
リビングスペースの隣室もまた、遥が住んでいた頃とほとんど変わらない景色が広がっていた。何度も遥と共に眠ったベッドもそのまま。だが、そこにはすでに先客が居た。
「どうしてここにいるの?」
ベッドの上に積み重なったクッション。そこに背を預けてこちらを見つめているのは、幼い頃から葵を支えてくれた白うさぎ。少し前までは確かに家にいたはずなのに、いつのまに移動してきたのだろうか。
「ひと足先に引っ越してきたらしい。葵の傍に居たかったんじゃないか?」
忍はぬいぐるみを可愛がる子供っぽさを笑うどころか、受け入れるような言葉を掛けてくれる。葵にとって大切な存在を認めてくれたような気がして、涙腺が一段階緩むのを感じる。
寝室にはもう一つ、遥が家主の時代にはなかったアイテムが飾られていた。ベッドの向かいの壁に掛けられた大きな水彩画。
「お兄ちゃんの絵だ」
夜空に輝く三日月。そのテーマ自体は珍しいものではないけれど、幻想的な色使いと柔らかなタッチは彼ならではのもの。
それに、よく近づいて見るとただカラフルな月というわけではなく、無数の何かが三日月型に集合しているのだと分かる。それは星や、繊細な細工が施されたランプ、はたまた蝋燭だったりもした。
こんな遊び心のあるイラストはやはり冬耶らしい。
「いつ描いたんだろう」
冬耶の描く絵は全て見させてもらっていると思っていた。だが、この絵は初めて目にする。この部屋に飾るために描いてくれたのだろうか。そんな予想が頭をよぎって、とうとう視界がぼやけ始めた。
二人の存在を常に感じられるような部屋。あれほど怖いと思っていた一人部屋も、これならきっと寂しくない。そう勇気づけられる。
「葵、うさぎに挨拶しなくていいのか?」
しばらく冬耶のイラストを見上げて物思いに耽っていると、不意に忍が夢みがちなことを口にした。確かにあのうさぎにはよく話しかけている。誰にも言えない本音を何でも打ち明けられる相手だ。でも、さすがに忍がいる前では気恥ずかしい。
「えっと、今は……」
葵ははぐらかそうとしたけれど、忍はなぜかベッドのほうへと葵を行かせたがった。もう一度促されれば強く断りにくい。仕方なく数歩歩み寄った葵は、うさぎの手に乗せられたカードを見つけた。
“葵ちゃん”
少し斜めに倒れる癖のある字が誰の筆跡か葵は知っている。それに気付いた瞬間、葵はベッドに駆け寄り、カードを取り上げた。
クリーム色のカードを開くとそこにあったのはただ一言だけ。
「どうして?まだ……」
涙が溢れるのは悲しいからではない。与えられた言葉があまりにも信じられないもので、葵を驚かせたからだ。
「その顔が一番に見られるなら、こんな回りくどい計画に手を貸してやった甲斐があるな」
笑いながら涙を拭ってくれる忍の言葉で、彼は全てを知っているのだと理解した。
「“いつもの場所で”」
忍は葵が今一番求めているもののヒントを与えてくれた。忍がわざわざ教室まで迎えに来たことも、遠回りをして寮までやってきたことも、全てが答えに結びつく。
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