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act.8月虹ワルツ<121>

エレベーターで一階に降りるところまでは我慢したけれど、扉が開くなり自然と走り出していた。忍もそれまで繋いでいた手をあっさりと離してくれる。 「アオ、行こ」 事情を知らないはずの都古も、葵が目指す場所へと導くように出迎えてくれる。忍がどこかのタイミングで都古に連絡を入れてくれたのかもしれない。だが今はそれを尋ね、確かめる時間さえ惜しかった。 当たり前のように抱え上げてくることには抵抗してみたけれど、そのほうが速いと言われれば反論しようがない。実際都古は怪我をしている状態とは思えないほどのスピードで、寮へと帰ってくる生徒たちの波をかき分け逆走していく。 彼が苦しい顔一つせず葵を運ぼうとしてくれるのは、葵がどれだけこの瞬間を待ち侘びていたかを知っているからだろう。ありがとうと伝えても彼は何も返事をしてくれなかったけれど、その横顔には優しい色が滲んだ。 校舎と寮を繋ぐ場所にある中庭。待ち合わせ場所といって思いつくのはここだった。 芝生とベンチぐらいしか目立ったものがないシンプルな庭園の中心には、学園の敷地内で一番大きな桜の木。少し前まで降っていた雨に濡れた葉が、日の光を浴びてキラキラと輝いて見える。 それを眩しそうに見上げる後ろ姿。見慣れた制服姿ではないけれど、見間違うはずがない。 「遥さん!」 都古に降ろされた体が地面に着くなり、葵は彼の名を叫んだ。その声を受けて振り返ったのはやはり遥そのもの。でもまだ信じられない。自分に都合のいい夢を見続けているのかもしれない、と。 走り出せば、遥は両手を広げてくれる。近づけば近づくほど本物に見えるけれど、期待して裏切られることが怖くてたまらない。 あれだけ急いでいたというのに、少しずつ足の運びが遅くなる。もしも夢ならば、今覚めて欲しい。遥に触れてしまってから現実に戻るのは辛すぎる。 「おいで、葵ちゃん」 完全に足を止めた葵に驚くでもなく、遥は至っていつもの調子で手招いてくれる。 「まだ六月じゃないよ」 「うん、葵ちゃんに早く会いたくて、帰ってきたんだ」 約束とは違う。そう確かめてみても、遥は葵を安心させるような言葉を紡ぐ。 「夢じゃ、ない?」 「確かめてみる?」 直接的な否定ではないが、彼の悪戯っぽい笑顔は葵の不安を溶かしてくれる。これが夢であっても構わない。そんな気持ちにさせられる。差し伸ばされた手に触れるのを、これ以上我慢出来そうもなかった。 己の手を重ね、温もりを感じた瞬間、グッと力強く引き寄せられる。途端に鼻をくすぐるのはお日様の匂い。この場所でずっと葵を待ってくれていた証のようだった。 「ただいま」 カードにも書かれていたメッセージ。直接遥から授けられてようやく実感が湧いてくる。本当に遥が帰ってきてくれた。会いたくて会いたくて仕方なかった。 「おかえりなさい、遥さん」 葵からも彼に回した腕に力を込め精一杯紡いでみたけれど、溢れる涙に邪魔されて最後までうまく言い切れなかった気がする。それでも遥は葵を強く抱きしめながら、もう一度耳元で囁いてくれた。 “ただいま” 待ち望んでいた言葉。低くてどこか甘さのある声音も懐かしかった。スピーカー越しで聞くのとはやはり全く違う。酔いしれるように目を瞑れば、小さな笑い声と共に頬に柔らかな感触がした。

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