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act.8月虹ワルツ<125>

全員の食事が終わり、テーブルの後片付けを終えてもなお、葵は眠りについたまま。周りの騒がしさで多少身じろぎはするが、起きる気配はない。 「葵ちゃん、そろそろ起きな」 繋いだ手を揺さぶり、頬を突いてようやく瞼が動き出す。眩しそうに薄められた瞼から覗くのは、甘い色をした瞳。 「……はるかさん、だ。夢?」 「夢じゃないって。寝ぼけてるな?」 寝起きで舌っ足らずな口調も、目を擦る仕草も、幼さを助長する。現実かどうかを確かめるために抱きついてきた体は、成長するどころか、記憶よりも小さく感じられた。 「お腹空いてる?もう少し我慢できそうなら、何か作ろうか?」 遥のシャツに頬を寄せて、まだ眠そうに欠伸をする葵に、自然とそんな提案をしていた。 フランスでは自分の腹を満たすためだけに簡単な料理を作ることはあっても、凝ったものは何一つ作る気が起きなかった。ルームメイトのルイにも、期待外れだと文句を言われるほど。でも葵相手には喜ぶ顔が見たくて、意識せずとも誘いをかけてしまうらしい。 「遥さんのごはん、食べたい」 「よし、じゃあ決まり」 遥が立ち上がれば、葵も慌てて後に続く。少しでも離れていたくないという仕草が可愛くて仕方ない。 「どこで作ってくれるの?」 「俺の家。明日学校休みだろ?そのまま泊まっていったら?」 最初から連れて帰る気ではいたけれど、今思いついたかのように提案してみた。 葵が遥の家に来るのはこれが初めてではない。ただ、西名家や学園で共に過ごすことが圧倒的に多かった分、葵にとっては特別な場所という印象が強いらしい。それを示すように、遥に誘われた葵は飛び上がりそうなほど喜んでくれる。 だが、葵はすぐにふと我に返り、戸惑う様子を見せ始めた。 「引越しの準備しなくちゃいけなかったんだ」 「部屋見なかった?すぐに生活できるようにしておいたつもりだけど」 “引越し”というほど大層なものは必要ないだろう。 「あの、ありがとう、遥さん」 新しい部屋の様子を思い出したのかもしれない。表情を和らげた葵は、贈り物への礼を口にした。 葵が寮生活を始めたのは、七瀬と綾瀬という友人ができ、通学に慣れてきてから。京介と同部屋にしたおかげで、それほど抵抗なくスタート出来たとは思う。 だが、役員専用のフロアに移す前に形式上一人部屋にする、という策は結果でいえば失敗だった。一人で過ごさせることに慣れさせるつもりだったのだが、京介と都古が入り浸ったおかげでちっとも成長できなかった。 当時は実家から逃げるように寮に移った都古のケアを優先して無理に引き剥がすことはしなかったが、計画は大幅にずれこんでしまった。これでようやく次のステップに進める。 「どういたしまして。気に入ってくれた?」 「うん、すっごく」 遠回りはしてしまったが、こうして葵が前向きに自立への一歩を踏み出してくれたことは喜ばしい。 無理をさせたいわけではないし、葵が負の感情に襲われた時に何をしでかすかは分かっているから野放しになど出来ない。一歩引いた立ち位置で葵を見守る役目は、三年の役員たちに担わせるつもりだ。 問題は、葵を失うことになる二人の存在。都古は相変わらず何を考えているのか表情からは読みづらいが、京介はこちらのやりとりに対してあからさまに不貞腐れた顔をしていた。 彼らとも会話をしておいたほうがいいのかもしれない。だから遥は彼らも家に来るように誘いをかけたが、どちらの答えもノーだった。 葵は残念そうにしたけれど、冬耶が同行するとフォローすれば、笑顔を取り戻してくれた。 「もうちょっと大人になりな」 「……うるせぇな」 葵を喜ばせることが出来ないことを咎めれば、京介は平気で憎まれ口を叩いてくるし、都古は無言でそっぽを向く。遥にとって二人はただの後輩ではなくそれなりに可愛い存在なのだが、どうやらその思いは一方通行のようだ。 それなら遠慮なく独り占めさせてもらおうか。ただ隣に居るだけで幸せそうにこちらを見上げる可愛い存在を。 「家に着いたら、たくさんしような」 葵の手を繋ぎ直し、耳元でそう囁く。葵は一瞬きょとんとした顔でこちらを見上げてきたが、すぐに頬を真っ赤に染めた。以前取り付けた約束はきちんと覚えてくれていたらしい。 ただあの時は“したい”と返事をしてくれた彼が、どこか戸惑うような目を向けてくる。 葵の心境が変わる何かがあったのか。まずはそれを問いただすところから始めよう。遥は普段と変わらぬ笑みを浮かべながら、まるで恋人のように指を絡め直したのだった。

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