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act.8月虹ワルツ<128>
「葵からの差し入れは素直に受け取っているんです。だから、顔色はいつもよりいいほうだと思いますよ」
無理をしていることには違いないが、食事はとっているし、葵との会話が息抜きにもなっているようだ。演奏会前に放つ周りを寄せ付けない刺々しい空気も、随分和らいでいる。
「演奏会に葵を招待してもいいと言い出しましたし、葵相手には大分気を許せているようです」
「へぇすごいな、葵ちゃん」
櫻は恋敵であるはずなのに、遥は嬉しそうに目を薄めた。櫻の変化を喜び、影響を与えた葵を誇らしく思うような、そんな眼差しだった。
「実際葵ちゃんを演奏会には招待したの?」
「いえ、葵が楽しめるような場所ではありませんから」
「でも“招待してもいい”っていうのは、招待したいってことだろ」
それほど濃い付き合いはなかったはずなのに、遥は櫻の天邪鬼な性格をよく理解していた。忍もその意見に同意ではあるし、葵本人も行きたがっている。だが、リスクばかりが頭をよぎるのだ。
「北条が連れてってやったら?」
「葵を、ですか?しかし……」
演奏会には忍の家をはじめ、名家と呼ばれる家の人々が招待されている。藤沢家とは縁遠いようだったが、それでも葵のことを知る人がいないとも限らない。それに、記者がうろついているような状況で、不特定多数の招待客がひしめく環境に葵を連れていくのも危ない。
忍は今考えられうるリスクを伝えようとしたが、着替えを済ませた葵が戻ってきたのを見つけて口を噤む。
一泊分の荷物を詰めたショルダーバックを肩から下げた葵の足取りは軽やかだが、まだ少しだけ違和感がある。それが捻挫の後遺症だと思うと、どうにもやりきれない。
「じゃあな。またどこかで顔出すよ」
遥はそう言い残すと、当たり前のように葵の肩を抱いて立ち去っていった。その後を都古が無言で追いかけていく。何の荷物も手にしていないから、彼は最後まで見送るつもりなだけで、遥の家までは連れ添う気がないようだ。
姿が見えなくなるまでこちらに手を振ってくる葵に応えてやりながら、忍は先ほどまでの会話を振り返る。
葵を伴って演奏会に赴く。それは本当に櫻や葵を喜ばせることになるのだろうか。
“淫売の子”と櫻を罵り、蔑むような連中に葵を接触させたくはない。まるで自分のことのように傷ついた顔をする姿が容易に想像つくからだ。
でもそれはあくまで忍の意見。大事なのは当人同士の思いなのかもしれない。
忍は自室に戻ると、先日櫻から渡された演奏会の招待状を手に取った。濃紺の封筒に光沢のあるシルクのリボンが結ばれている。中に記載されているのは、来週末の日付。
誘うべきか否か。まだ気持ちは揺らいでいる。
隣室からピアノの音色が途切れたのを合図に、忍は一度櫻本人の意向を確かめに向かおうとした。だが、迷っているうちに再び柔らかな音色が響き始めてしまう。
決断できないなんて自分らしくない。忍は行き場を失った足をソファへと向け、ゆっくりと腰を下ろした。
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